「名前のない星」戯曲賞 創設への道④
「名前のない星」戯曲賞は「若手による若手のための戯曲賞」であると明言しています。
ここでは、なぜあえて「若手」という縛りをつけた戯曲賞を創ったのかを語ってみたいと思います。
ひとつ目としては、月並みですが、次の世代を作っていく若手が面白いと思う作品がどういうものか見てみたいからです。
なんだかんだ言っても、ここが最大のポイントです。
マーケティング的に、今の日本の最大購買層は60代以上の老人です。
ライトノベルなども、もっとも買っているのは40代~50代だったりします。
今の日本では「若者」であるということに資本主義的な価値は低いです。
けれど、次の日本を作っていく10代、20代の人たちが何を求め、何を面白いと思うのかを、僕たちはもっと知らなくてはいけないと思っています。
それと同時に10代、20代の人たちにもっともっとスポットを当てなければいけない。
僕は10代の終わりに家出をし、それなりに社会をサバイブしてきました。
そんな僕でも「今の若者は大変だなあ」と思ってしまいます。
仮に今の僕がこの時代で同じ状況、同じ年齢で「家出」を選択したとしても、まともに生きていける気がしません。
「マイナンバー」「スマホ契約」「銀行口座」「低いバイトの時給」「安いアパートの減少」などなど、言い出せばキリがありません。
僕はいわゆる現役世代と言われる人間ですが、今の日本を作っていくひとりとして、もっと次世代につなぐことを考えなければいけないと思いはじめました。
また今の日本を作ってきた老人たちが、自分たちのやってきたことへの責任を少しでも果たして欲しいとも思い始めました。今の日本を生きなければいけない若者たちに、こんな日本にしたことへの贖罪意識が少しでもあるのなら、何かをしてあげろよ(一番簡単なのは金を出すこと)。いや、しろよ。そう思わざるを得ません。
ただ、何でもかんでも若い人にやらせてみればいいのかというと、もちろんそうではない。
この戯曲賞において、ひとつ懸念がありました。
若手のみで作品の選考ができるのか。他者の作品を正当に評価できるのか。
しかし、これは小説賞の多様化を参考にすると、問題ではなくなりました。
小説では「賞」においての評価軸や選考基準が多様化しています。
例えば、ネット系小説サイトをのぞけば、同じような作品がならんでいることに気が付くでしょう。
読者を審査員にした結果、作品内容の最大公約数化がおこり「わかりやすく支持を得ることができないが面白い作品」というものが埋没し、出てくることができなくなりました。
僕自身はライトノベル第二世代の人間ですが、この時代は粗削りで型にはまってない、そんな新しい作家が多く世に出て、若者の心を掴みました。
マーケットとしてライトノベルが拡大を続けていたので、そういった「売れるかまったくわからない」ものが許されていた時代だったのです。
マーケットが縮小していくと、おのずと安全策をとり、奇抜な作品は好まれなくなります。
しかし、そういった「経済問題」に関していうなら、戯曲賞はまったくの自由です。
そもそも売れそうな戯曲を発掘しているわけではない。戯曲において、悲しいことなのかもしれないですが「売れる・売れない」問題はありません。
色んな形態での応募可。
粗削りで型にはまりきってない作品。
演劇以外のジャンルの人も応募し易い規定にしました。
戯曲の作り方にこだわらない、演劇とはこういうもの、戯曲とはこうあるべき。
そうした概念が凝り固まっていない若手が、人々を自らの感性を信じて「これだ」という作品を選んでもらう。
それは若手にしかできないことであり、この戯曲賞の意義であると僕は信じています。
それが「若手」を選考委員においたもうひとつの理由です。