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人生の選択と後悔について

私たちは幾度となく重要な選択を迫られ、自己責任で選び進まなければならない。もちろん選択に成功することも失敗と感じることもある。

私はこれまで約26年生きてきて、個人的に大きい選択を2回したと思う。どうでもよい選択かもしれないが、振り返るとこれにより人生に深みが出てきたと感じる。この2回の選択を大まかに振り返り、人生の折り合い方について考えていきたい。

選択①順風満帆な大学時代

私は高校時代より海外で生活してみたいという希望があり、実際に大学在学中1年間「韓国」への交換留学を経験した。これは、人生における成功的な選択だと感じている。

当時は、特にどの国に行ってみたいというそこまでの希望はなく、ただ日本という国を離れ、違う環境で生活してみたいという興味関心が原動力だった。そのため、行先を吟味し選択する必要があった。英語圏でより将来の幅が広がりそうな「米国」と、個人的に関心の強い「韓国」とで悩み、結果的に「韓国」を選択したのだ。

「米国」VS「韓国」の最終決断はその時の勢いだった。当時は成人の節目であった20歳の誕生日にその日の気持ちで「韓国だ」と決め、その後に周りと自分を説得するための理由をつくりあげた。

家族や周囲の大人、友達からは「韓国に行って将来どうするんだ」「まずは英語を身に着けろ」など批判されたが、「語学習得のためではなく、韓国でオリジナルの経験を積みたい」という目的を持つことにし、結果的にその通り自分だけの貴重な経験ができたと思う。就職活動の際も、語学習得だけでなく、アルバイト経験など自分だけの経験を積んだことがアピールでき、希望の企業へ就職できた。

別の国へ留学していれば、またそちらが正解と感じていたかもしれない。だが、この選択は選択後の道が順調に開かれ、当たりだったと思う。

選択②焦りの会社員時代

さて、今度は後悔した話だ。

希望通りの企業に就職し、希望の職種に着け、絶好調のキャリアスタートを切っていた。一応外資系企業ということもあり、新入社員であっても即戦力として責任ある仕事もどんどん任されていた。非常にあこがれとやりがいのある仕事であったが、恐らく自身の容量に対してキャパオーバーだったのだろう。次第に心身ともに疲労していき、視野も狭くなってしまった。

いわゆる実力主義の風潮があり、結果を出し続ければよいが、失敗が続くと最悪退職を迫られることもあった。そのうち、今は若手としてやる気などで評価されているが、「あと数年もすればもうここで評価されるような実力はない。」という焦りが強くなった。

自己肯定感はどんどん下がり、とにかく「何か手に職を付けなければ」と謎の焦りも発生した。ついには、かねてより関心のあった「心理カウンセラーの国家資格(公認心理師)」を取りたいと周囲にあまり相談もしないまま通信大学に通い始め、最終的に2年間務めた会社を退職した。

その後はこの資格を取ることを第一優先に考え、勉強をしながら勤務できる職場を探し、キャリアアップには直結しない任期付きの事務員に一旦落ち着いた。

順調に資格を取得できればよいが、この資格は社会人が取得することはかなりの難関であり、相当な時間とお金を費やす。(学部を卒業し直し大学院へも進む必要がある。)さらに、これまでのキャリアを捨てカウンセラーへの道を本格的に進めば、会社員として再度企業に採用されることはなかなか難しい。

当時はこのリスクの部分を考えられておらず、資格取得の道が花道のように見えていた。そしてそれが花道ではなく、いばらの道であることに気付き、前進も後進もできない後悔の沼に陥ってしまった。

絶望からの脱出

当時のキャリア選択を振り返りよくなかったのは、「ネガティブな感情のまま決断を急いだこと」だと感じる。

一旦休職してみるという方法もあるし、周囲の人にもっと相談するという手順もある。部署移動を願い出てみてもよかった。だが、視野が狭くなっていたためか、とにかくここから抜け出すことだけを考えその時の感情で決断してしまったのだ。今戻れるならそんな決断は取らないのに、当時の自分はまるで別人のようだから少し怖い。

さて、陥った絶望からどう抜け出したかというと、特にまだ抜け出したとは言えない。どちらかというと、その沼の中で割り切って別の抜け穴を見つけている感じだ。激しい後悔ともがきを経験したからこそ、前よりも謙虚になれたし、今の自分だからこそできる仕事があると思う。社会人学生として心理学を勉強した経験も活きるかもしれない。

同世代の友人達が活躍している姿を目の当たりにすると、焦る気持ちは確かにあるが、人生に折り合いをつけ、自分は成長し続けていると信じたい。

人生に折り合いをつける

私だけかもしれないが、どこか自分は不死身であるかのように考えていることがある。大袈裟に言いすぎたが、今20代後半を迎え、100年間生きると仮定しても1/4の時間はとっくに過ぎている。最後にはもう手元には何も残らないのに、永遠に残り続けるような錯覚がある。

これにたまに気づかされるのが、身体の老化である。例えば、歯の状態が悪くなり、歯を削る修繕をした際、もうこの歯が戻ってくることは絶対にないことを再認識する。こういう時に「この身体も永遠ではないんだな」と当たり前のことだがハッとさせられる。

何が言いたいかというと、選択を誤ったとしても、私が思っていたほど大したことないということだ。よくない方向に進んでしまっても、そこで淡々と生活さえできれば十分立派なのだ。言い訳や負け惜しみのように聞こえるかもしれないが、そうやって人生に折り合いをつけていきたい。



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