友達の成功を心から喜べる人について
これはNetflix(ネットフリックス)で公開中のドラマ「舞子さんちのまかないさん」劇中の台詞である。主人公の「きよ」と親友の「すみれ」は舞子を目指し2人で京都に来たが、きよは挫折し、すみれは舞子になるためどんどん上達していく。上のシーンは、ついにすみれが目に見えてステップアップし、それをきよに伝えた場面である。ここで主人公のきよは悔しそうな様子は一切なく心から親友の成功を喜ぶ。
私はこのドラマを観て、主人公きよの純粋に親友の成功を願い喜ぶ姿に、多少の違和感と感動を感じた。違和感というのは、もし私だったら恐らく心のどこかで悔しさや劣等感を感じ、心から応援できないというところから感じた。だからこそ、主人公の健気に友達を想う姿に感動し胸を打たれたのだ。
現実の世界で、ここまで友達の成功を喜べる人がどれだけいるかは分からない。だが、今回は前回取り上げた「自己評価維持モデル(SEM)」を深堀して、こんな天使のような存在の感情を考えたい。
本当に同じ課題をもっているか
早速だが「自己評価維持モデル(SEM)」によると、自分に対する自己評価は相手と関与度の高い課題を持っている時に発生するとされている。上記作品の場合、主人公と親友は「舞子になる」という共通の課題を持って京都に来たように見える。本当に2人の目的が「舞子になる」ことであれば、2人の上達度の違いや心理的な近さからライバル的な存在になり、劣等感や優越感が発生しそうなものである。
だが、主人公のきよは自分が舞子になるという課題よりも「親友のすみれと一緒にいること」に価値を置いていたようだ。序盤で主人公が舞の稽古でうまくいかず、稽古から外されるシーンがあったが、特に悔しそうな様子もなく楽しそうに親友の舞を眺めていたことからも、「自分が舞子になる」という課題の優先度が低さが伺える。
その後、主人公は舞子ではなく「まかない担当」として親友のすみれの近くで存在感をみせていく。本当に「舞子になる」ことに対しての優先度が低く、「親友と一緒にいる」ことが重要であったならば、親友のそばで支えるという役割を得た主人公は満足できたのだろう。
友達の成功が自分の誇りになる場合
「自己評価維持モデル(SEM)」によると、相手と自分が持つ課題が異なり、心理的な距離が近い場合、相手の達成度が高いほど自分の自己評価が上がるという。分かりにくいが、こう考えると理解しやすい。例えば、同じ中学校に通っていた同級生が大人になり歌手として成功したとする。自分が歌手という職業を目指していなければ、友達の成功を自分の誇りのように感じるというのだ。職場で「○○は地元の友達だ」と自慢をしたくなる程である。
「舞子さんちのまかないさん」の場合、主人公のきよが本当に親友のすみれと関与度の低い課題を持っていたならば、親友の成功を心から喜ぶというのも納得のいくものである。少なからずありはしたであろう「舞子になる」という課題を主人公が消化できていたかは、実際のところ分からないが・・・。
相手の成功を喜べない時の打開策
ここまで1つの作品を通して「友達の成功を喜べる人」の存在について考察してきた。この作品はこの1つの心理学的モデルで説明できるような簡潔な物語ではなく、様々な人々の事情や心理が入り組んだやわらかい物語だと感じている。一面的な見方で主張を進めたため、それは違うんではないか等不快に感じた方がいればお詫び申し上げたい。
さて、作品を離れ実際問題として、「親しい友人の成功が喜べない」という状況は大いに存在する。私も自分の性格の悪さに悩むほど、相手の成功を心のどこかで妬んでしまう時がある。
これは人間の心理学的モデルから見ても仕方がないことだと受け入れたうえで、できるだけこう考えてみたい。それはその相手と「異なる課題を持っている」と考えてみることだ。同じ職場の同僚が先に昇進し劣等感を感じたなら、「相手の課題は出世だが、自分は幅広く経験を積むことが重要だ」または「相手の課題はスピード昇進だが、自分はマラソンのように着実に進む方が大事だ」と捉えてみるのもよい。苦し紛れの打開策だが、相手を正面衝突するライバルとしたくない場合はこの手もありだ。
「物は考えよう」だという。自己肯定感を保つためにも、苦しい時ほど冷静に自分の課題と向き合ってみたい。
▼友達との比較についての前回の記事はこちら▼