「私」のための現代思想 高田明典 著
「私」という存在を哲学的に、現代的に解釈、再定義した本だと言える。哲学とイメージすると本質的でありつつ、かつ抽象的な概念を今までイメージしていた。ゆえに現実世界と哲学とをリンクさせることは難しいように思えたが、現代社会にも多くの気づきを与える一冊だった。
特に印象に残っているのは、人間にとっての正しさの定義である。著者によれば、人は「正しくあろう」とする存在だと言う。ここでいう正しさとは何か、ここに社会の本質が反映されているように思った。
正しさとは道徳的でも、倫理的でも、社会が推奨する正しさでもない、自分の内部での正しさと規定されると言う。現代社会を生きる我々において、正しさを求められる場面は非常に多い。いわゆるコンプライアンスが非常に(過剰に)スポットを浴びているのが現代社会で、まさしく道徳的で、倫理的で、社会が推奨する正しさを表している。これをそのまま自分にとっての正しさに置き換えなければならないと考えるからこそ、人は苦しくなるのだと考えさせられた。
ハイデガーの言葉を借りれば、社会を生きることは自分という物語の中で、自分という役割を演じることであり、社会が規定した正しさを生きることは自分にとっての仮面をどんどん厚くしていくこと他ならない。これではストレスに心が疲弊してしまう人が後を絶たないのが容易に想像できる。ある種私たちは、「私たちの正しさ」を原因として苦しんでいるとの一節があり、SNSを含め、多種多様な仮面が存在する現代社会だからこそ、自己と他者との関係性について認識しておく必要がある。
加えて、教養とは何かについての一節も興味深かった。教養とは「自由になるための技術」なのだという。その上で、哲学を放棄することは思考を放棄することと同義で、私たちに与えられた武器は思考であり、言語であり、論理であると記されていた。
確かに思考も言語も論理も、現代社会では他者とのコミュニケーションツールとして存在するが、数少ない自己対話のツールでもある。他者との関わりを可能な限り分断し、仮面を外した、本当の自分を露わにさせるのが自己対話であり、そのために人間に宿された「思考・言語・論理」なのかもしれない。
例えば学び一つをとっても、我々は社会の中で役割を演じさせられているのがよく分かる。赤くて丸いこの果物は何なのかという問いに対し、回答は「リンゴ」の一つしか社会は許してくれない。それは社会にとってこの赤くて丸い果物は「リンゴ」と定義されているからで、我々が今まで経験してきた学びはいわば、社会において重要とされている分類基準を自分のものとする作業でしかない。自分を殺し、社会の基準を獲得する、そうした思考の自殺の繰り返しを「大人になる」と我々は呼んでいる。しかし自己の世界、物語ではその必要はない。リンゴがリンゴである必要もない。
そのほかにも、”「自殺は不道徳である」という考え方が非論理的なのではなく、道徳そのものに論理性が内在していない”との言説にも感銘を受けた。所詮、他社によって規定された道徳なのだから論理性が内在していないのも頷ける。良い意味で社会とはその程度のものだと気付かされる一冊だった。