『大きな魚とスニーカー』③
7
体内の血液が真っ白になった感覚が走った。
予想外に早すぎた非日常が目の前現れたからだ。
約束の時間はまだ少し先だった。
強烈な印象を焼き付けるどこか虚ろな双眸は、一目で彼たる存在を私に認識させた。
すらりとした体つき、顔も立派な青年らしさがある。
濡れ髪が整った曲線の頬に張り付いていた。
私は歩幅を小さく意識して、彼の元へと歩いた。
緊張のためか、雨に濡れた寒さか、足がわなわなと小さく震える。
彼は店先で視線をリノリウムの床へ流したまま屹立としている。
眼前にまで迫ったが、何と話しかけていいのか分からない。
再び店内はクーラーとエアポンプのモータ音に包まれた。
彼の濡れ髪から雫が滴る。
スニーカー。と彼は言った。
まだ新しい、相変わらず出不精なんだね。
探るような抑揚でそう続けた。
あなたも、相変わらず靴が気に入らないようね。
声量を振り絞り私は応えた。
彼のはいていたスニーカーは、泥で汚れて靴紐もお情け程度にしか結ばれていなかった。
そして、再び沈黙が流れた。
出ようか。
長針が半周分まわるくらいの間をあけ、彼はそう言って扉へ向かった。
彼が開けた扉からは、生温かい空気が体に張り付いてきた。
私のスニーカーも彼の後を追った。
8
どこに向かえばよいのだろうか。
おそらく皆、自分の家と仕事場の往復で日常を消化してるのだろう。
区画され、綺麗な建物が並ぶこの街には見事に無駄がない。
家か仕事場のどちらかしかないのだ。
僕のような靴をちゃんと履けない人間にはその住処が用意されていない。
どうしようか。彼女は長袖のシャツをめくりながら僕に言う。
歩こう。そう僕が言うと、彼女は何も言わずに歩幅をあわせてくれた。
ぱらぱらと雨が降り始めた。
彼女は一つしかない傘をさし、僕に持つように促してきた。
9
この世の中には、靴が人口の2倍存在する。
しかし、中には僕みたいに靴が嫌いな人だっている。と彼は言う。
もちろん、世界はそう単純ではない。
片目しかない人もいれば、指が六本生えている人間も存在する。
誰しもが足りていて、そして足りていない。
よく分からないものに支配されている人もいるし、それに抗う人もいる。
私はその後者でありたいと願うが、支配から逃れるほどの度量がなかった。
群れからはぐれた魚になる勇気が持てなかったのだ。
魚群にまぎれて、周囲と泳ぎを合わせ、流されて生きる術しか知らない。
そのせいか、流れに逆らうものの強い力に魅入られてしまう。
歩いていくほどに、新品のスニーカーは泥で濡れていった。
気がついた時には、せっかくのトリコロールのデザインも台無しになっていた。
その汚れたスニーカーは、彼のはいているものとそっくりな汚れた輝きを帯びていた。
彼の隣で歩くことで一匹の大きな魚でいることができる。
このままどこまでも泳いで行きたかった。
雨は小降りになっていた。
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