アダルトチルドレンを脱出した方法はとことん自分の好きに向かって経験を積むことだった①
アドラーはトラウマがないと言ったけど、アダルトチルドレンの私は、確かにアドラーのいうトラウマに入らないトラウマだらけだった。
やる前からのご法度の呪縛ばかりで、やりもしないのにそんなもんだとネットでわかるとかやらなくてもわかるとか、自分への呪いを増幅していた。
HSPでよかったなと思えるのは、その非人間的思考による行き詰まった閉塞感に、都心のスクランブル交差点でピストルを無造作に連射する妄想に掻き立てられ、もうダメだと思えたところから、自分の再生活動が始まった。
まったくもって、その再生活動は「地味」だった。
今までやらなかっただけあって、どれもこれも現実以上の華やかさを私の妄想は抱いていて、はじめは何をやっても震えるほどの感動のない行動結果で、また死にたくなっていた。
私の全てを取り巻くわだかまりから解放されたい!
やっぱり、原因であることの多い「家族(親)」から離れる儀式は本当に重要だったと思う。思い返せば「突き放される行為」「癇癪による躾」「理不尽な暴力」は存在していた。「毒親」と言えば解放されることもあったが、全部がと言われると自分の中にも疑問が湧く。みなその危うい一線を経済や育児夫婦関係や親子関係の間で行き来していて100%毒親は存在しない。逆に100%毒親でなかった親も存在しない。それが育児なのだろうと思える。
重要なのは、親のおかしな言動もおかしいと思える距離感とその自立を促せるものだったか。
自分の場合は突き放されながら、私がいないと生きていけないとときたますがりつかれる矛盾の呪縛だった。愛着障害を植え付けられた子供にには数倍障壁が増していたと振り返る。
親の期待から解放されて、どこまで自己責任(自分の心赴くままに)行動できるか、自分の素直な興味に向き合えるか、自分の「好き」をいかに手放さずに持ち続けられるか、それを育てられるか。
自分の体の無理に気づいて、最高のパフォーマンスはどこか、毎日、つぶさに自分に目を向け、甘えなのか、怠けなのか、急速なのかの折り合いをつけるのか、たったそれだけが本当に大変だった。
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