発達障害という認定ほど不確かなものはないと思う。
ASD傾向があるホリエモンとかADHD傾向のあるひとゆきとか(ちなみにこのふたりは、自分のことを自分ですでにそう説明しているコメントがいくつかる)
ADによりADHD傾向を強く発揮した幼少期の私は、HSS型HSPが近そうだと気づいたが、HSPの非社交的部分は今や0に近く、初見で親友なみに親しくなることもある(1000人と対話に挑戦、鼻血をだじながら達成、本質的な会話を好むHSPの気質を哲学カフェで磨く、問題は早い段階で相手と仲良くなると、昔の私と一緒で、わかってもらっているという依存性を出してきてマジでうざいので、友達はいらないとなっている。)
結局、普通の人、発達障害はどこまでも成長するように右肩上がりのグラフをグレーに登っているだけであり、明確に判断できるものはない(だけど、ジャッジする医師には何かしらジャッジする「ものさし」があるようだね、私たちに共有できない「ものさし」って主観じゃね?とか最近思う)。
特徴は確かにあるよね。
・ASDのウソ
・ADHDのウソ
・HSPのウソ
のつき方には傾向が出るようだが、これももし社会の「目」から問題になるような集団的傾向なら、個人は気づいて直す(その場面に直面しない選択、直面したら自分の方が現在理解されないとわかれば、その時に相談できる人を持っておくとか、そもそもそんな環境に一生触れない環境をと整えるとかさ)。結局、なんかたのしそ、とか、こうあるべき、とか、自分自身に問い合わせしないのに思い込んでるなにかに、無理ありジョインしてるときにそうなっていると思われるのよ。
結局1番の悪は、悪意を持って何かしている人より、ただ知らないだけで他人の選択肢を奪っている人なんだよね(アウシュビッツの死刑ボタンを押し続けたのは、しがない公務員だからね)。あの時代からやっと、その構造が認知されて、今広まっているのかな?人待ってるよね?と思っている。
だから、発達障害だから、HSPだから「悪い」ということはない。
でも、その傾向と対策を怠って、他人になんとかしてもらおうというのはおかしい。それにはいつも具体性がかけている(それを無知としているかも)。
○私は「これ」ができないから手伝ってもらえませんか?
✖️僕はこうゆう人間なんで気遣ってもらえませんか?(知るか!ぼけ!)
である。
ということで、現代のコミュニケーションの重要点は、君のことは君しか知らないのに、他人に自分の説明する言葉も持たない、また、そういった人間関係をきずいてすらいないのに、「お願い」して相手を困らせて、不愉快にさせるひとを「発達障害」と読んでいいと思う。
と開き直った。
だって、発達障害とかHSPと気づいて、その特質を活かすか、悩むかして頑張ってる人がいるのに(ちなみに他人に頑張るのでなく、自分について自己研究できる人でないと救われないよ)、その努力もしないで、「一生懸命だから報われる」はあり得ない。
そこに気づいた人から次に行ける。
自己理解noteから気づいたこと。
これは厳しくない。(昔は認めたくなかったし助けて欲しかったけどね)
これをしないと人と対等に接せない。
それは、助けてくれる人がいても、同じ土俵に立てていないから助からない。
ただそれだけのこと。
ただそれだけのことをできずに体感6割以上の人がただ死んでると思う。
なので、簡単なことではない。
だろうね。