じいちゃん 2
じいちゃんは、夫の父親、義父のことである。
結婚相手を夫に決めたのは、もちろん【夫が優しい人】だったのは言うまでもないが、それ以上に【夫の両親の人柄】が良かったこと。
夫の家はド田舎。
田んぼや畑のある山間部。
とても裕福とは無縁に見える家。
そんなことはどうでも良いほどに、付かず離れず良い距離でサポートをしてくれる夫の両親。
じいちゃんは【おしゃれさん】だった。
じいちゃんは、70代になる頃まで、毎月欠かさず散髪に行って白髪を黒く染めいた。若く見えていた。
じいちゃんは、【自由人】だった。
大工だったじいちゃんは、60歳になる頃には工務店を辞め、時々手伝いに行くくらいの仕事量になっていた。
じいちゃんは、夜釣りが好きだった。夜な夜な夜の海に軽トラに1人乗りのボートを乗せて魚🐟️やタコ🐙を突いたり釣ったりしていた。(じいちゃんの好物は肉だったから、自分ではあまり食べない)
じいちゃんが取った魚やタコは、ばあちゃんが捌いたり下ごしらえをして、よく我が家に持ってきてくれていた。
新鮮な海鮮(時にはナマコなんかも)を貰えるのは嬉しかった。お陰で、色々な海の物を捌けるようにもなった。
じいちゃんは【運転が好き】だった。
じいちゃんは、よく、ばあちゃんとドライブしていた。
休みの度に、結構遠くに日帰りで、梨狩り、りんご狩り、ちょっと遠くに住む娘(夫の妹)の家まで出掛けていた。本当にマメに。そして、お土産も貰ってた。
でも、枕が変わると眠れないらしく、いつも日帰りで!
じいちゃんは、【たぶん】私と話すのが好きだった。
お互い様だけど、じいちゃんとの掛け合いは楽しかった。小気味良かった。こっちがそう思うのだから、きっとじいちゃんも楽しかったはず。
じいちゃんは、晩年私の運転する車の助手席で、若かった頃建てた家の事や昔の事件の話、昔と変わってしまった道々の話を沢山した。
じいちゃんのご指名で運転手を引き受けていた。白内障の手術を受けたばかりのばあちゃんに運転させるのは怖いと思ったからか...お陰で、親孝行の真似事がさせて貰えたと感謝している。
そんなじいちゃんは、晩年よく
「早う楽にならんにゃあいけん」と言っていた。
余程、身体が辛かったのだろうと思う。
でも、まだ喋れる間は大丈夫!というか、逝くには、もっと辛くて喋られなくなることを私は経験上知っていたから、「まだ、逝かれんよ!」と言っていた。
じいちゃんは、晩年、自分が自分の思うように動けないことを歯痒く思っていた。
じいちゃんは、田や畔の草が伸びているのが気になって仕方なく、ばあちゃんに八つ当たりすることも増えていた。
そんな夏、ばあちゃんが心筋梗塞で倒れた(一命は取り留め以前ほど無理は利かなくなったけど元気になった)
じいちゃんは、よくばあちゃんの事をボロクソに言っていた。主に物忘れの事とおっちょこちょいな所。
(そんなばあちゃんが入院したことで、有り難みも増したのか?!)
ボロクソに言ってたけど、とても感謝もしていた。
晩年、「わしが早う死にゃあ、こんなぁ(ばあちゃん)も楽になる」と言っていた。
この言葉は、ばあちゃんに世話を掛けていることを自覚した言葉だったのだろう。亡くなる数日前には、「あと2~3日(逝く迄)じゃけえもうちっと我慢してくれ~の」と言ったそうな。
じいちゃんは、結構【無駄遣い】してた。
無駄かどうかは他人が思うことであって、本人にはそれが必要だったのだと思うけど。
着ない服(いつか着ようと)
使わない大工道具(いつか使うかも)
が沢山出てきた。
そして、使わなくなった電化製品も大事に取ってある。
じいちゃんは結構【お金持ち】だった?
だけど、それには理由がある。
いつも、ボロ(着古したようなもの)を着ていたし、直さなければならない自分で建てた家も直さず、築150年のボロボロの家も崩さず、家の周りの垣根は伸び放題。兎に角お金を使っていない(必要な所に)
そうした負の遺産は現在ばあちゃんに引き継がれた。
現金は確かにばあちゃんが生きていくには何とかなるくらい貯められているけれど、負の遺産を何とかするには足らない。
問題を先送りしてお金を貯める事から始めなければ・・・と
じいちゃん!問題は山積み!
楽にならんけど、どうしてかな?
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