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渺々たる空の鏡

今思えば、小さい背中を追っていた。小さな背中に、流れるように揺れるサラサラした金髪に見とれていた。これは僕の記憶で・・・・・・既に遠い過去のこと。
姉は優しくて真っ直ぐな人間だった。けれど真っ直ぐ過ぎるせいでよく人とぶつかった。
彼女は他人のために生き方を曲げられない人間だったクセに、他人のことをよく想っていて本当に優しい人間だった。
だからきっと、家を出ていったのは窮屈さに耐えきれなくなったからなんかじゃなく、いない方が他の人を幸せにできると思ったからなのではないか、と考える。
今あの人は何をしているだろうか。
僕の知っている姉のように真っ直ぐに生きているだろうか。
自分に嘘はつけなくて、他人にも嘘をつけなくて。とにかく嘘がつけなくて。
……今の僕とは正反対だけど、そんな様に生きてくれているだろうか。
そんな生き方では傷だらけになるって解っているはずなのに……。

「またか」
また、起きて十分もすれば忘れてしまう……この夢か。
姉が家を出て行ってからこの夢を見なかった日はほとんどない。そう覚えているのに、毎日変わらず寝起きにしか夢の内容を思い出せない。
あの人は、あの人の生き方を貫いただけだ。だから僕も僕で生きていかなくちゃならない。
姉がいた頃から使っている目覚まし時計は昔より色褪せたけれど、昔と変わらずうるさくて、今日も変わらず働いている。
昨日と大して変わらない毎日はいつもここから始まる。
濡れた枕も頬を流れる涙ももう、慣れた。

大して広くないリビングと、地続きのキッチンは小奇麗に掃除されていて、僕以外の人間がここにいたことをまざまざと示してくる。
寝ぼけた目でパンを食べて、タイマーにしておいたテレビをぼんやり眺める。
今日も晴れ。明日は雨かもしれないらしい。雨雲が少しでも急いでくれれば少しは楽しいのになぁと思っているうちに天気予報は終わっていて、うちの子自慢の投稿写真がでかでかと映し出されていた。大多数は他人の写真になんか興味がないけど、興味のある何人かを自分の番組に縛り付けておくためのコーナーだろうと僕は思う。
テレビを消して鏡に向かい合う。伸びたのを右に流した、冴えない緑色の前髪に同じく冴えない水色の眼。姉はもう少し明るい水色の目をしていたと思う。少し笑っているような目の形は姉と同じだが、表情が豊かでない分僕の目は胡散臭いように見える。もうそろそろ成長期も終わるというのに体格に恵まれず、薄いままの胸板や筋肉のない手足が、僕を一層軟弱に見せていた。
一時期母は、姉を失ったことに耐え切れず、僕を女装させるという行動に出たことがあった。違和感があまりなかったのが少し悔しかったが。
体格とは裏腹に無骨な指がネクタイを不格好に結ぶ。髪の色と似通った色で気に入らない。どうやら僕の通う高校のスクールカラーらしく、嫌な運命を感じるが三年の我慢で済む。髪の色はそうもいかないが……もう少し大人になったら、それこそ金色に染めてしまおうか。
授業道具が詰まったスクールバッグを乱暴につかみ、家を出る。
「行ってきます」
誰もいない家に向かって声をかける。
ただ虚しさだけが残った。

昔と違って定期券はICカードで済むようになって、駅員は職務怠慢だなぁとか、どうでもいいことを思いながら改札を通って、垢抜けた遊戯でも何でもないブリッジを渡って、目当てのホームで電車を待つ。僕も昔は階段を無駄に、登ったり降りたりして遊ぶのが好きだった。けれど色魔と同じように、このちょっとしたアトラクションが、実利的な階段に過ぎないことに気がついてからは嫌いになった。
誰でも、知らない方が楽しく過ごせるような事実はたくさんあるし、その中には大小様々な興の冷める点がある。その一つに過ぎなかっただけだ。人間の考え出す実利的なものには、大人の都合が例外なく関わっている。だから、幼い自分が夢を見てしまうのも仕方のないことのように思った。
ぶわっと、鉄の波が来る。続いて人の波が寄せては返す。流されないように、流されるように電車に乗り込む。ここから一五分ほどこの波に揺られることになる。実家からは五十分近くかかるので、この微妙な位置取りの駅のすぐ近く、親戚の経営するマンションの元モデルルームを借り受けて暮らしている。一人暮らしだ。しかも家賃の心配はいらない最高のひとり立ちなのだった。

ホームと車内の間、少しの隙間が恐ろしく見える。落ちはしないとわかっているのに大げさに避けて、車両の奥の方へと進む。座席に座っている人はだいたい寝ている。立っている人はというと、ほぼ全員がスマートフォンをいじっている。僕のようにただぼうっと外を眺めている人などほとんどいない。
時代は変わっていくのだ。
もう新聞を読むような人もいない。居たとして競馬新聞ぐらいなものだろう。赤ペン片手に、折りたたんだ新聞とにらめっこをする中年は見ていて癒される。あの人は勝つのかな、負けるのかな、負けたら奥さんに怒られて肩身が狭くなったりするのかな、勝ったらスイーツでも買ってご機嫌を取るのだろうか、とか考えていると他人事なのにやけに楽しい。
まだ聞きなれない駅名がアナウンスされ、ドアが開く。すいません、と聞こえるか聞こえないかぐらいの小声でつぶやきながら人の波をかき分ける。たまに降りられない。
改札を抜けて外に出た。ここから徒歩五分ほどで着く学校のくせに、ここから自転車を乗る奴もいる。そんなに急がなければならないほどの時間ではないだろう、と思ってはっとする。そういえば腕時計は部屋でなくしてそのままだった。けれどスマートフォンで事足りる上に、時計のようにずれる心配もない。ついでにまだ一五分も余裕があった。

「よっ」
「うわっ」
後ろからいきなり肩を叩かれた。しかも割と強い。こんなことをする奴は一人しかいないはずだ。僕の交友関係は学生のくせに狭すぎるから。
「海……お前急がなくていいのか?」
「応よ、余裕だぜ」
こいつの学校は僕の学校より少し遠い上に登校時間が少し早いのだ。つまりこんな時間にここにいると学校近くで走る羽目になるのではないかと心配になる。
「そうか。おはよう」
「おはよう。朝はちゃんと起きたか?」
「起きてなかったらここにいないだろうな」
「だよな。よしよしよくできましたー」
「……む」
不満ではあったが、その手を払いのけることも出来ず、されるがまま。
僕の身長は一七七センチだが、海の身長はもっと高い。不健康そうな目のクマと相まってヤンキーっぽい見た目だが、お察しの通り中身はおかんだ。
こう自然に頭を撫でられていたら、本当に母親みたいで安心してくるが、僕は母親に頭を撫でられたことなど一度もない。ただ、こういう風なのかなぁと思うだけだ。
「あのさ、今日家来る?」
「行っていいなら行くけど、なんかあった?」
「いや冷蔵庫の中何にもないなーと思って」
「じゃあ買って帰る?」
「うん。放課後何もないよね?」
「残念なことになんにもねーな。じゃあ駅前付いたら連絡入れるわ」
「了解。じゃ、僕はここで」
「また後で」
居眠りのプロみたいなところはあるけれど、授業に関しては大丈夫だと信じたい。というか授業が大丈夫じゃないのは、どちらかというと僕のほうかも知れない。
受けたふりをしているけど、内容なんて全然頭に入ってない。しかし、素行に問題はなく、愛想もよく、テストも平均よりは上。真面目な人のように見られているけど全然、全然そんな人間じゃないんです。ごめんなさいと言って逃げたいぐらい、時々、周りの目が苦痛だ。
普通科の当たり障りない授業なんて、つまらないことこの上ない。けれど大学に進むために耐える。大学に進んだからといって、就職という社会の一片に収まるのは避けられないし、学びたいことなんてそうないのだけれど。
今日も空は青くて綺麗で、雨なんて降り出す気もしない。

僕も校内に友達ぐらいいる。友達の基準が何かはよく知らないが。机を寄せて昼飯を一緒に摂ることができて、一人ぼっちなんて悲しい事態にはならなかったけど、ああいうのは周りの人が思うほど当人は気にしていないものだとも、思う。
周りに言わせると動じない人間らしい。僕としては中身で何を思っていても顔に出せないだけなのだが、冷静なやつだとかクールでカッケーなどという評価がひとり歩きして、どうにもならなくなっている。
姉はなんだって顔に出したし口にも出したけど、そのせいで人とぶつかるところを多々見てきた。反面僕は争いごとが怖くて、怯えて、逆に何も顔に出さないようになった。口に出すことも、相手が不機嫌にならないか、火種にはならないかと心配しながら、考え抜いて選ぶ。そのせいか口数も少なくなって、言いたかったこともまぁいいかで済ませるようになってしまった。
悲しいやつめ、と海なら慰めるだろうか。あいつは鋭いから、こんな中身でさえ見抜いているんだろうけど。
「おーいクラゲ?次体育だけど?」
「あ、そっか。ボーッとしてた」
「しっかりしてくれよなー」
アハハハ、と笑う同級生に釣られて笑い出す。表情なんてこの程度でいいのだ。
体育館は中学の時より狭い。高校の方が体育館を使う機会が多いんじゃないかとは思うけれど、狭いものは狭いのだからしょうがない。それに天井が脆いらしく、バレーボールは力加減を考えてやれとの指示もある。そろそろ建て替え時なんじゃないかと一年生に思わせる校舎も珍しいと思う。
黙って先生の説明を聞いていたら、突然パタパタと音がしてきた。それが強まりバタバタになって、しまいに連続音になった。つまり雨なのであった。まさか本当に降るとは。
「うわ傘持ってきてねーよ」「通り雨だろ」「ていうか本当に雨か?」「カーテン閉まってるし外見えねー」
騒ぎ出すクラスメイト達。先生は呆れ顔で「じゃあ今言ったとおりにやれよー」との指示を出した。
海は傘を持っているだろうか。持っていてくれれば安心するし、持っていなかったらそれもまぁ楽しいかも知れないと思った。

結局昼頃の雨は通り雨だったらしく放課後になるともう晴れていた。ところどころ濃い灰色の水たまりがあって、そこから乾きかけの足跡が続いていたりする。
海とは駅前で落ち合うことになっているから、校門前の多くの人がそうするように僕も駅の方へ流れていった。手をつなぐ男女だったり、ヘッドフォンで耳をふさいでいたり、グループで歩道を塞いでいたりと、いろいろな人間がいるものだと感心する。その中で僕は誰の邪魔にもならないように紛れ込んでいた。
こんな大人数で周りが個性の塊だったら多少背が高くたってそれほど目立たないものだ。僕の個性ってなんだろうか。
駅前の駐輪場の柵に寄りかかっている人影が見える。海だ。佇まいがヤンキーみたいで周りに人がいない。僕はあの、目のクマがない海を見たことがない。
「待たせたか?」
「いいや別に。帰ろうぜ」
おう、と返事をして歩き出す。海はこういう待ち合わせになるとだいたい早く来ている。それでいて待ったかと聞くと今のような答えしか返さない。
そもそもこいつの考えることはよくわからない。脳細胞のつくりが根本的に違うんじゃないかと疑ってしまうほどに、考え方も、生活のリズムも合わない。なのに一緒にいると落ち着いて、安心して、結局頼りっぱなしになってしまう。
定期を改札にかざして電車を待つ。ホームの、僕が初めてこの駅を使った六年前から変わっていない看板を眺める。どこかの整形外科の宣伝だそうだが、まず整形外科に宣伝などいるものだろうかと最近は疑問に思う。こんなところに看板を置いてしまったら美容整形をしたい勘違い女からの電話が殺到しそうだが、そういうことがないから未だに同じ看板なのだろう。と思っていたら突然看板が隠される。電車がホームに到着したから以外の理由は今のところ思いつかない。
海の広い背中を追って電車に乗り込む。朝とは違って座席がまぁまぁ空いていたおかげで、二人並んで座ることができた。
「何買ってこうか」
「いつもの感じでいいか?」
「任せるよ。僕に意見を求められてもまともに返せる自信がない」
「そうだと思った」
このまま話を続けなかったら多分海は寝始めると思う。すぐに寝られるって特技なのか?
「今日は何かある?」
「いや、何も」
「そっか」
じゃあ泊まっていくのかな、と。海が泊まっていった次の日は弁当が用意されているから助かる、っていうのもあるがそこよりも嬉しいところもあるわけで。
横顔を盗み見る、つもりだったのだけど、目が合ってしまった。そのまま肩によしかかることにした。海は何を思ってこっちを向いたのだろうか。疑問は口に出さないけれど、理由は多分僕と同じだと思う。
「明日のお弁当、期待してる」
「……ん」
電車の定期的な揺れは眠くなることが、科学的に証明されているらしい。そんな証明があったところでどうでもいいが。きっと人間は、自分が思っていることが偉い人の手によって証明されるのが気持ちいいだけで、その証明が正しいかなんて実はどうでもいいのだろう、ってどこかで読んだけどどこだったか。
多分このままだと海は眠るから、僕が起きてないと。

「冷蔵庫の中って何あった?」
「味噌とマーガリンとパンとジャムとお茶と……後なんだったかな」
「つまり何もない、か」
「冷凍庫に餃子とアイスはあった」
「隣に置いておいたら匂い移りそうな組み合わせだな」
「と言いましても、それしか入ってないようなもので」
「勝手に隣になるってな。とりあえず一週間分ぐらい買っておくか」
「頼んだー」
「じゃあまず玉ねぎとじゃがいも、好きなのとってきて」
「頼まれたー」
言われたものを持ってきたら「じゃあ次牛乳な」とか言われるオチに違いない。
「ま、僕の買い物だからいいけど」
玉ねぎとじゃがいもを取ったあと、ふと目に付いたシーチキンを手に取る。開けて油を切るだけで、何にでも使えるからといってよく使う。おかげで安いときに買っておく癖ができた。この前はケチってカツオのシーチキンを買ったせいで大失敗した。今回はマグロの表示をちゃんと確認した。
「取ってきたよ」
「お疲れさん。あともう少しだし一緒に回るか」
僕がもたもたしていたわけでもないのにもう籠の中はいっぱいだ。慣れってすごいと思い知らされる。
最後にレジ近くにあった卵を籠に入れて会計に通す。籠から籠に、そして袋へ。袋に移し替える作業は僕の分担だ。最近はレジ袋も高いので折りたたんだトートバックを持ち歩くことにしているが、たまに入れ忘れて海に呆れられる。

店を出ようとして、海が立ち止まった。
「どうした?」
「雨降ってるなって」
「ほんとだ」
「傘持ってる?」
「うん、ほら」
赤い折りたたみ傘を出す。
「海は?」
「持ってない」
「じゃあその傘さして。僕は荷物もつから」
そうして二人並んで歩き出す。小さな折り畳み傘に、はみ出さずに入れるよう足並みを揃え、ゆっくり歩く。海の傘を持つ左手に、僕の右手を添えて進む。
二人三脚みたいでうまく進まないけれど、この時間を楽しんでいる自分がいることにはとっくに気が付いている。海は多分、傘をこっちに寄せているから右肩を濡らしている。そんな気遣いいらないのに。
でもなんだか、そういう奴だったなと思えてきて思わず心からの笑みがこぼれる。こんな気持ちがくすぐったくて、一緒にいられることが嬉しくて、笑う。
「もっと近づいて、じゃないと濡れちゃうでしょう?」
そんなのは口実かも知れない。というか半分以上が口実なわけで、でも少しは海に寒い思いをさせたくないっていうのもあって。
「……わかりづれー奴」
海がしょうがないなというように優しく笑って、それから意地悪な顔になる。
添えていた手が引っ張られる。そのまま―――

少々強引すぎただろうか。傘ごと海月の右手を引っ張り上げて抱き寄せる。いつも余裕を装って作り笑いを浮かべている目が開かれる。
薄暗くて見づらいがいつもより頬が少し赤い気がする。綺麗な青磁色の髪が揺れる。
少し濡れた右手を海月の頬に添える。やはりいつもより熱い気がするが、オレの手が冷たいだけなのかもしれない。
「こうシて欲しいなら早く言えっての」
海月は思ったことを素直に口に出さないし、少し恥ずかしがりなところもある。だから先に手を出すのはいつもオレだが、きっかけを作るのは海月だった。
海月が細い体を寄せて、上目遣いでオレを見る。
「……」
口を開けて、声に出そうとして、でも言えなくて、みたいなことを繰り返していて見ているこっちがもどかしい。
そのうち恥ずかしいんだか困ってるんだかよくわからない顔で、その上今にも消え入りそうな声でこう言った。
「ば、か……キス、して」
「下向いてたらできないんだけどな?」
はっと顔を上げた海月の唇を奪う、だけには飽き足らず熱い咥内に舌を滑らせる。海月はすがりつくように唇を重ねてくる。
傘を持つ手は添えられた海月の手に強く握られていて、離したくないとでも言いたいかのようだった。
ざらついた舌同士が絡み合って粘液を交換していって、背筋がゾクゾクするほどの感情が沸き立つ。甘い唾液が脳を支配して躰の奥まで染みてゆくようだった。
気がつくとお互いの顔は上気していて呼吸も荒くなっていた。もうすぐ梅雨入りしそうな五月下旬の冷たい空に二人の吐息が白く溶けてゆくが、消える隙がないほどに呼吸は荒くて激しい。
「もっと、ちょうだい」
呼吸も整わないうちにまた唇を重ねる。狂ったように舌が踊る。きっとそのうち躰が熱くなってきて溶けそうになる。その前に、やめさせなければ。
「ここからは帰ってからな」
不満そうに歪む眉に尖る唇。頬に軽くキスをしてから、傘を持つ手ごと引っ張って歩き出す。海月はまだ納得いかないといった風な顔でついてくる。掴む場所を傘ではなく、オレの腕に変えて。

確認する手段はないけれど、まだ顔が熱い気がする。呼吸は普段通りに戻ったけれど、心臓の鼓動は未だ元に戻らない。
海はどうだろうか。
平気な顔で歩いているのだろうか。
でも、確認しようと顔を上げると目が合う気がしてどうも見られない。
組んだ腕に寄りかかる。鼓動は僕と同じぐらい早かった。
顔を見ようと目を上げると、いつもより少し赤い顔の海がいた。
なんだ、似たようなものじゃん。

家に着いて、まず冷蔵庫に買ってきた食材を詰め込む。
「晩ご飯、何か手伝えることある?」
「特にないな。テーブルの準備でもしておいてくれ」
至って普段通りの指示だった。
準備が終わって何気なくつけたテレビも、なんだかつまらない内容ばかりだ。テレビには体だけ向けておいて、キッチンの方に目と神経を向ける。
いつもの詰襟の上から空色のエプロンをつけてまな板に向かっている。後ろ姿を改めて観察すると、母親と変わらないなという感想を持ってしまう。実家で母親が料理をしているところなどそう見たことはないのにも関わらず、だ。
炊飯器が絶賛稼働中なので電子レンジとトースターは使えないし、ドライヤーなんて使えば一瞬でブレーカーが落ちるだろう。まぁ、この家に引っ越してきてからドライヤーを使ったことは一度もないのだけれど。
ブレーカーが落ちたのは引っ越してすぐの時、春の大嵐で雷が落ちた時の一度だけで、自分の不注意で落としたことはまだない。
僕の視線に気付いたのか海が振り返る。あるいは後ろの棚から食器を出そうとしただけかもしれない。そしてソファーの背もたれの角の部分に頭を乗せ、ふんぞり返って頭だけキッチンの方に向けている僕と予定調和のように目が合う。
その一連の流れに思わず笑ってしまう。すると海には怪訝な顔をされた。
「お前さ、オレといる時は作り笑いしないよな」
「いらないじゃん?」
「まーな」
海は棚からボウルを取り出して作業に戻る。やはり作り笑いとバレていたか。
「僕の作り笑いってそんなにわかりやすい?」
「いいや、完璧すぎる。でも一回、本当に笑ってるのを見ちまったら、見分けぐらいつくようになるな」
「そう……そうねー」
つまり、そんな表情を僕が見せるぐらい心の許せる相手だったら、ということだ。
その言葉の意味には気が付いているだろうか。気づいているのだろうけど、さして重要なことではないと思っているのだろう。その価値観がどうにも不思議で、好きだった。
「海は不思議な人だね」
「お前ほどでもないな」
飾らない言葉も好きだ。時折見せる優しい笑いも含み笑いも好きで、照れて赤くなっている顔も僕の部屋を見たときの呆れきった顔も全部、好きだ。
「僕に不思議なところなんて無くない?」
酔ったように気分が良くなって、頭が回らなくなって、自然に言葉が出てくる。そんな阿呆みたいな安心感も今となっては海にしか持てない。
「結構あると思うぞ。金属のフォークが苦手なのにアイスピックは平気なのとか……やけに恥ずかしがりなのに大胆なところとか」
そう言いながら、あくどい笑みを浮かべて振り向く海が、どうしようもなく幼く見えてやはり笑ってしまう。
「三本で刺されるより一本の方がまだマシだと思うんだけど」
「アイスピック、結構深く刺さりそうで怖いけどな」
実家のフォークで、左手の小指の付け根を思いっきり刺して大量に出血した思い出があるせいか、フォークは怖い。未だに跡が残っている。でもフォークで殺された人の話はまだ聞いたことがないから、アイスピックよりは凶器になりにくいみたいだ。
「それにね、口に出さないだけで頭の中ではとんでもないこと考えてたりするよ。ただ口に出すのが……ちょっと、怖いだけで」
いや、恥ずかしいも少し入っていたりするかもしれないけど。と思っていたら海に鼻で笑われた。どうやら顔に出ていたらしい。

「ほら、出来たから運べ。オレはもう少し洗い物するから」
「はーい」
フライパンは熱いうちに洗うのが楽でいーんだよ、と海が呟いている。
僕がモタモタとソファーから立ち上がって、キッチンの料理に向かうまでに、海は洗い物を終わらせてエプロンを仕舞っていた。手際の良さは、そこらの女子とは比べ物にならないと思う。
「おせーよ」
笑ってはぐらかそうとしたら抱き寄せられた。
「……海?」
そして、それが自然な流れであるかのようにキスをされた。
「いや、あまりにも無防備だったからつい」
「やっぱり海のほうが不思議だよ?」
そして、ハンバーグと野菜とマッシュポテトの乗っかった大皿を運びながら呟く。
「甘えたさんなところもあるよね」
「なっ……」
意外なところを突かれたらしく、珍しいことに海が動揺している。面白くなって、ご飯を運びながら言葉を紡ぐ。
「もっと甘えちゃってもいいんだよ。その分頼りにしてるんだから」
動揺するどころか固まっている。とりあえず今はこれぐらいにしてご飯にしよう。
「さ、食べよ?早くしないと冷めるよー」
海は口元に手を当てて動揺を抑えて……いや抑えきれてないんだけど、それから席に着いた。
「「いただきまーす」」
ずっと海がこっちを向いている気がしたけど、気にしないことにした。いちいち気にしていたらまともにご飯が食べられなくなる。
今日も美味しい。ハンバーグの中からチーズと肉汁が溢れ出てきた。箸で食べられるちょうどいい硬さだけれど真ん中まで火は通っていて、なんというか、尊敬の念さえ浮かんでくる。
自分一人だと麺ものか丼しか食べない僕にとって、海がご飯を作りに来てくれるということは、食生活の改善になるのであった。僕にとって一番頑張ったと言える料理は三色丼だからな。三つも具材を調理しないといけないなんて丼の風上にも置けないと思っている。
「今日も美味しいよ。海はすごいね」
「毎日やってりゃ嫌でも慣れるぞ」
「そうかな」
僕が海みたいに上手に料理を作るところは想像できない。というか、メニューを考える作業ができないのが一番の問題だと思う。やっぱり海はすごい。
「ごちそうさま」
二人でご飯を食べているとだいたい先に食べ終わるのは海だけど、僕が食べ終わるまで食器を下げずに待っていてくれる。うちの家族は食べ終わった順から下げていく人達だったから、その小さな気遣いというか、海にしては普通のことなのだろうけど、人がいるっていう事に最初は驚いたものだ。
「ごちそうさまでした」
こういう幸せに毎日感謝していたいと思う。

皿洗いは僕の分担なので、さっきとは全く逆の構図が出来上がる。ここで作業をしていても案外向こうの気配は感じられるんだな、と改めて思う。興味のなさそうなクイズ番組を見ながらぼうっとしている海がいた。
洗い終わってソファーの方に行ってみると、半分寝ているような海がいた。まったく予想通りだった。
ソファーは三人掛けで少し広い。僕でも横になれるぐらいの長さと奥行で、このソファーを選んだ親戚のおじさんに感謝したい。そのソファーに二人並んで腰掛ける。
海は詰襟を先程まで座っていた食卓の椅子の背もたれにかけていて、ワイシャツ一枚でボタンをいくつか外したラフな格好だった。僕もブレザーを椅子にかけていて、ボタンを2つほど外したワイシャツに緩めたネクタイをしていた。
詰襟を着ている時よりも体温が身近に感じられて、少し暑いぐらいだった。

海の右肩に寄りかかっていると肩を抱かれて、そのまま倒れるように寄りかかる姿勢になる。二人とも足までソファーに乗っかっていて、そんなに狭いわけでもないのに足が絡まっている。
僕は海の方に体を向けて、掴まるように腹這いの姿勢になった。
「忘れてないよね?」
海の胸の上で寝っころがりながら囁く。僕の髪を、零れた水でも掬うようにいじりながら、海は言う。
「忘れられるほど、馬鹿にはなれないからな」
含み笑いをしながら僕を見てくる。いままでに見たことがないぐらいに悪い顔だ。
僕達の呼吸が重なる。バチャバチャと、静かな水面をかき乱すように咥内に海の舌が入ってきて絡み合う。離したくなくて、首の後ろに手を回して体を引っ張り上げる。
ワイシャツの擦れる音がひどく官能的で、映画でも観ているような不思議な感覚に陥る。
息ができなくなるほどに激しくキスをして、苦しくなって息を吸う。まるで溺れているようなふわふわとした気分で海に体を預ける。
普段見上げるばかりの海を見下ろして、また背を丸めてキスをする。熱さのあまり溢れる涙が海の頬に落ちる。まだ余裕そうな海の目に、妖しく潤んだ僕の瞳が映って、それすら見させないといった様にきつく抱きしめられる。
腰の辺りを撫でられて、くすぐったかったのが徐々に熱くなってさらに息苦しくなる。腰が砕けて、跨っていた海の足の上に体重をかけてしまう。寝っ転がっていた海がタイミングを見計らったかのように起き上がり、僕を抱き上げて寝室の方へ向かう。

蛍光灯がオレンジ色の明かりに変わって、お互いの顔は見えるか見えないかぐらいの暗さになった。手探りでネクタイを探り当てて首をぐいと引っ張られ、キスをされている間に衣擦れの音が鳴り止んだ。
ここまで来るのに随分と長くかかったなぁ、と頭の片隅で思いつつ、押し寄せる快楽に精神を沈めた。お互いを傷つけ合いながら慰めて、獣みたいな呼吸をする。枕に顔を埋めながらどこから出るのだろうかと不思議になるぐらい高い声で喘ぎ、酸素を探す。比喩ではなく、溺れている。もうすぐ死ぬのではないかと思うぐらいに苦しいくせに、いやに気持ちが良くて、僕はもうとっくにブッ飛んでいたんだと実感する。巡る血の中に針でも混ざったのではないかと錯覚するぐらいの痛みに混ざった悦が全身を支配する。体の奥に秘められていた、僕の知らない感情が海によって目覚めさせられたかのようにも思うし、海も同じであって欲しいとも願う。そして軽い立ちくらみのような感覚に陥ったと思うと全てが終わっていて、まるで嵐のあとのようだと思った。

昨日の高揚のツケというか、思う存分遊んだあとの会計みたいな感覚が、目を覚ますと同時にやってきて心底気怠い。
寝る前にセットしたスマートフォンのアラームより三分ほど早く起きた。隣で眠る海月を起こさないように、そっとベッドから這い出る。サラサラと流れる海月の髪が気持ちよくて、ついいじってしまう。避けた髪の間から桃のような色の唇が姿を見せて、息を呑む。
けれど寝ている奴にキスをする趣味はない。死人に口づけをしているようで気持ちが悪いからだ。
寝顔は美しく、またいつもと比べると幾分か少年のようなあどけなさも残っているように思う。いつもこんな顔でいたら、それこそオレみたいな奴がわんさかすり寄ってきそうだと寝ぼけた頭で思う。
さっさとシャワーを浴びて朝飯の支度でもするかな、と頭を切り替えて足を動かす。熱いシャワーでも浴びないと、昨夜の海月の顔が頭から離れなくて顔のニヤけが収まらないだろうから。
今はまだ朝の六時すぎで、駅に向かって家を出発するのはだいたい七時半頃だから、のんびりシャワーを浴びていても間に合う。年代ものだがドライヤーもあるので髪の毛を乾かしていく時間はあるだろう。そう考えながらシャワーの湯加減をいじる。左の二の腕あたりと右の肩に噛み跡があった。昨日は気がつかなかったが今回も噛まれていた。まぁ、絆創膏か何かで隠せばいいだけの話なのだが。

頭からいつもより少し熱い湯を浴びながら、やはり昨日の情事を思い出してしまう。忘れようとしても暫く忘れられないだろう。苦しそうなのに妙に嬉しそうで、意地悪く笑ってキスを重ねる。女より妖艶な目でオレを誘ったかと思えば、限界に達してトロンとした目でもう一回とせがむ。背筋に雷が走ったかのように言葉にならない声と共に涙を流したかと思えば、満足げに笑って抱きつく。そんな表情もできるのか、と終始思わされる。いろんな感情が目まぐるしく入れ替わって、冷静さとか理性だとかと呼ばれるようなものは部屋の片隅にもなかったように感じる。
「……くそ」
頭を空にしようと思えば思うほどいろんなことが思い出されて困る。どんな顔で会えばいいのかがわからなくて、頭をかきむしる。何気なく向けた視線の先、鏡の中の自分と目が合う。相変わらず酷いクマの不機嫌面だった。

制服の上からエプロンをしてフライパンと向かい合うこと早十五分。弁当はそれなりのものが出来上がったので、朝食用にとりあえずベーコンを焼きその上に卵を落とす。コーヒーメイカーはちゃんと作動しているし、トーストはもうすぐ焼きあがりそうだ。焼きあがったベーコンエッグを、同じく焼きたてのトーストに乗せて皿に盛り付ける。
さて問題はここからで、海月をどう起こせばいいのか。普通に起こすしか選択肢はないのだが、その普通が思い出せないのが一番の問題だ。そう悩んでいるうちにも足は進んでいていつの間にかドアの前にいる。悩んでいても仕方がない。とりあえず肩を揺すって声を掛けるしかない。
ドアを開けてベッドに向かう。海月はオレが起きた時と変わらない格好で眠っている。呑気な奴め、オレの気も知らずに。
「おい、起きろ。もう朝だ……、海月?」
髪を顔から避けて気づいたが、こいつは泣いている。しかもまだ寝ている。
「海月、起きやがれ」
「んぁ……海……」
「何寝ぼけてるんだよ、ほら朝飯出来てるから」
「海は、嘘をつく?」
「は?」
まだ開ききっていない目と呂律の回っていない口調でそんな事を言う。そんな変な質問に、オレはため息混じりで答える。
「いらない時にはつかねーな。でも嘘をついたほうがいい時だってあるし、その時は嘘をつく。要は使い分けだな。人を傷つけない嘘はたまに必要になるものなんだから」
「……そっか、そだね」
海月は特にこれといった感情も見せずに答えを受け取り、涙を拭う。
「お前、なんで泣いてんの」
「なんでだろうね。気がついたら毎日こんな感じ。でも、もう……」
「なんか言ったか?」
「気にしないで。手貸して」
なにか思うところがあったのかうんうんと頷きながら手を伸ばしてくる。反射的に手を握ってしまったのが海月の思うツボだった。
手を引っ張ってベッドから起き上がるとそのまま擦り寄ってきて、軽くキスをした。昨日のままで少し汗臭くて、その匂いから昨日のことが思い出される。
「……っ」
思わず足から力が抜けた。嫌でも顔が熱くなっていくのが分かる。
「海、大丈夫!?」
「だい、っじょうぶだから、近寄るな馬鹿!」
突然様子のおかしくなったオレと、転んだことで見えた右肩の噛み跡ですべてを察したのか、目を覚ました海月まで赤くなって後ろのベッドに倒れこむ。微妙な距離で同じようなことをやっている、阿呆みたいなこの瞬間が、微妙に楽しかったりもするんだけど、何せ楽しんでいられるほどの余裕も無かった。ただただ、天井を仰ぐ。
「朝っぱらからなんてことしてるんだか」
「う……ごめん」
言葉にならない呻きが漏れる。
「あーー」
頭はテンパっているけどまぁ、幸せなわけで。
このまま学校サボって遊んでいたいなーとも思った。

微妙な距離感で朝ごはんを食べて、それからシャワーに入る。思いのほか汗をかいていたらしく体中ベタベタだった。
「にしても、さ」
海のあんな反応は予想外だった。昨日のことを忘れたわけでもないけれどあそこまで動揺されるとこっちまで驚くし、無意識のうちに噛んでいたなんて恥ずかしいにも程がある。
記憶が曖昧すぎてほとんど覚えていないけれど、海をあんな表情にさせるぐらいにはハイになっていたのだろう。
でも、寝起きに話しかけてくれたおかげで嫌な夢からも解放されそうだ。結局嘘をつけない姉も嘘だらけの僕も間違いだったのだ。
「もう、あの夢も見なくて済みそう、か」
ただ、真っ直ぐに生きる姉の姿が綺麗に見えてなんとなく理想になっていただけだ。傷だらけになっている姉を見て、中途半端に理想を追うのをやめて、嘘で塗り固めた生き方を続ける必要なんてなかったのかもしれない。
海の後のシャワーはいつも熱いけれど、今回はいつもに増して熱くて驚いた。頭を冷やすためだろうか。冷えるのか?
曇った鏡にシャワーのお湯をかけて自分の姿を映す。胸の真ん中よりも少し左、心臓のあたりにキスマークがついていることに気がつく。海はつけたことを覚えているのだろうか。噛むのとは違って理性がないとできないと思うんだけど。位置的な問題もあって。
シャワーから上がって軽く髪の毛を拭く。それから制服に着替えていると、脱衣所に海が入ってきた。
「ドライヤーあるんだから髪ぐらい乾かせよ?」
「乾かしたほうがいいかな、引っ越してからドライヤー使ったことないんだけど」
「それ本気で言ってんのかよ……ほら、ここに立ってろ」
言われたとおりに突っ立っていると海がドライヤーを手に取って、慣れた手つきで僕の髪を乾かし始めた。
「綺麗な髪なんだから大事にしろよな」
その一言に驚く。なるほど、やけに頭を撫でたり髪をいじっていたりするのはそのせいだったのか。自分より背が低いからとか、撫でやすい位置に有るとかそういう理由ではなかったみたいだ。
「そっか」
思っていたより、このままの自分でもいいみたいだ。背伸びしなくても、変わろうとしなくても、今の僕を好きになってくれる人が居るってわかったから。
「ありがと、海」
「……なんだよ急に」
嬉しくなって笑いたいのに泣きそうになって、表情を変えられなくて、海の指が優しく髪の毛を梳かしながらドライヤーを当てている暖かい感じに包まれて、どうでもよくなって。
このまま離れたくないなぁと、そんなことを思った。

「「行ってきまーす」」
今日も空は、泣きたくなるぐらいに青かった。

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はぐれ烏煩悩派
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