明日

昨日の自分は私だけど、明日の自分は他人であると、思う。

明日が来るのが怖い。これは中学生ぐらいのころからずっと思っているから、8年ぐらいずっと明日が怖いなぁと思いながらその明日を昨日にしてきているらしい。インセインみたいに恐怖に適応なんかできない。毎日大体、怖いなぁと思いながら眠る。だから薬でも使わないと眠れなくて、だから薬を使ったとしても眠れないのだ。
明日が来たなら。私が眠りから醒めたなら、その私は私ではないと眠る前の私は思う。心に決めたやるべきことも出来なければ、特に理由もなく眠り続けてしまったりもする。これがすごく困っている。せめて眠りたいと思って眠ってくれるなら、どうにでもやりようはある。けれど理由がないのだ。なぜと叱られても、わからないです…としか言いようがない。
そんな毎日を送っている。最近は眠っている時間のほうが長い。昨日の自分の積み重ねが私であるならば、明日の私もきっと眠りこけているだろう。それじゃ、駄目だ。だから変わりたいと毎日願っている。

どうせ変わらないから、明日の私…変わることのできなかった私を否定して、また明日の私に変化を託す。事実、それが私だ。

変わりたいと願うことは悪いのだろうか。毎日自分に失望して、明日への希望を大きくしていくだけでは、きっと駄目なんだろうと肌で感じている。変わることのできるように、努力をしなければならないのだと。
私は努力が嫌いだ。頑張ったと自分を褒めることも、本当は嫌いだ。その場しのぎしか出来ない自分が嫌いだから、本当はだらけて甘えていたいだけの自分が嫌いだから、自分なんかを褒めてはいけない。頑張ったことは誰かと比較することではない。必要なのは結果なのだ。だからその過程の時点で満足してはいけない。もしも明日変わることが出来ても、明後日戻っていれば意味がない。
変わりたい。
完璧に変わりたいと、腹の底から願っている。

よくツイートしているないような気がするが、私は絵に対して努力をしたことがない。いつの間にか人に見せられるぐらいの絵が描けるようになっていて、今も思った通りの絵が描けなくて苦手だな~と思うことが多い。
だから、一切絵が描けなくなっても困らない。一切の創作活動をやめれば私の願った完璧な人間になれるのなら、きっと簡単に捨ててしまうと思う。そして絵が描けなくなったり動画を作れなくなったりすることを嘆いたりもしないと思う。
けれど文章は違う。
文章を書くことは創作活動であるし、日記である以上に、決意であり、希望だ。
こうして文章で明日について言及をすれば、明日の自分はきっと変わっているんじゃないかなと思っている。
そして存在しない人間の人生を描くことで私の生き方も少しは変わってくれるような気さえする。存在しない誰かよ、私の中で生きていてくれてありがとう。私はあなたをアウトプットすることで救われています。

頼む、明日の自分よ、変わっていてくれ。
そして願うのなら、明後日の自分に願わないでくれ。願わなくても私が思う理想の人間になっていてくれ(きっと駄目だ、私は何も変わることができないままだから私なのだ)。

無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。