邂逅、菖蒲の月と行き場のない裏路地

父代わりの人がいた。恋人代わりでもあった。命の恩人だった。俺に愛を与え、知恵を与えたあの人を形容するならば、母の方が適切だったかもしれない。

「向かい、良いかい?」
にっこり笑って、二人席の向かいの椅子に手をかけるスーツの男。深夜のファミレス。だらしない格好のカップルが1組と、くしゃみのでかいじいさん。もちろんガラガラの店の中で、スウェットにジーパンの少年に声をかける、どう見てもファミレスなんかに縁のなさそうな、スリーピースを着たイケメン。いつもの暗夜に、奇怪の産声が上がった。
「好きにすれば」
少年はそっけなく答えた。どうも、と短く答えて男は少年の向かい側の椅子に、何のためらいもなく座った。このやり取りの中で動揺していたのは深夜番のアルバイトの大学生ぐらいなものだった。
「αが何の用」
短い沈黙の後、先に口を開いたのは少年の方だった。男の胡散臭い顔の仮面が、剥がれた。
「俺はアヤメ。よろしく」
差し出された手は空をかいた。少年は手元の分厚い小説から手も、目も離すことはなかった。男は、その反応は予想通りだと言わんばかりに言葉を続けた。
「鋭いのは勘かな、それとも嗅覚?まぁ、どっちでもいいんだけど。窓から君を見てね、興味が湧いて声をかけたんだ。まさか本読むためにここに来ている訳じゃないだろう?」
「じゃああんたが良いのは勘か眼だな」
 男はグレーの瞳を、少年を値踏みするかのように妖艶に動かしていた。少年はその視線も意に介せず、本のページをめくった。大体半分ぐらいに差し掛かったところだった。
「そう、俺は眼が良いんだ。それに勘もいい。だから、君が面白い奴だという予想は難なく当たったわけだし、君の勘も当たっているって訳」
 少年は初めて顔を上げた。仏頂面をしていても判るぐらい整った顔だった。男の瞳を、まっすぐに射抜いた。
「それだけじゃないんだろ、一晩ぐらいならどうでもいいし」
「番になってくれって言っても考えてはくれる?」
「金次第」
「じゃあ、とりあえず一晩どう?」
「わかった。すいませーん、マルゲリータと海鮮ドリアと、あと旨辛チキン二つお願いしまーす」
 かしこまりましたーと、遠巻きに見ていたアルバイトが返事をした。
「俺、夜飯まだなんだよね」
 それが少年の初めて見せた、年相応の表情だった。憎らしくもあり、何より愛らしいと男は感じた。
「……それだけで足りるのか?」
 男、アヤメは驚くより何より先に疑問が口から出ていた。先ほどまでの芝居がかった口調も何もなく、これがアヤメの素なのだろうと少年は感じた。
「太らせてから食うのが好きなわけ?」
 まだ学生のようにも見える少年の嫌味も、先ほどより砕けた感じになった。拒絶の色は薄くなり、この不審なスーツ男に対する興味が見え隠れするような態度へ変わった。この状態を、何も知らない人が見たならば、友人と評するような空気が、二人の間に流れた。
「お待たせしました」
注文した料理は程なくして二人の前に並べられた。少年は行儀よく、しかし尋常ではないスピードで料理を平らげた。
「本当に足りたのか?」
「もう食えない。こんなに食ったの久しぶりだわ。はい、伝票」
 ペースで言えばまだまだ食べられそうに見えたが、少年は本当に満足したらしかった。がっついている訳ではないが、速かった。
「じゃあ出るか。何か持とうか?」
「いい。こんぐらい持つ」
 少年の鞄の中には、先ほどの分厚い本がまだ何冊か入っていたらしく、ナイロン地から角が見えていた。重いだろうに、とアヤメは思ったが、まだ警戒されているということにして諦めた。

「ごちそうさま。腕、いい?」
「ああ」
 少年は本当にアヤメの家に泊まりに行くようだった。しかも、一晩限りの恋人として。慣れた動作で腕を組み、背の高いアヤメと歩調を合わせた。
 しかし慣れているのは少年の方だけではなかった。アヤメも、こういった行為には慣れているようで、言葉を交わしてから一時間と経っていない少年と寄り添うこと自体には別段驚きもしなかった。が、少年が腕を組んできたときの手つきの無駄のなさや、自然と相手の歩調に合わせてスムーズに歩くことには驚いた。
どうやらただの少年ではないらしい。夜道に、少年の履いているハイヒールの、コツ、コツという音が響いた。
「家、駅から反対方向じゃん。何であのファミレス来たの」
「職場があっちなんだよ」
「風俗街じゃん」
「そういうこと」
 じゃあそこで適当なΩでも買えば良いじゃないか、見た感じ金にも困っていなさそうだし、さっき会計の時に出していた財布もブランド物で、札もかなりの枚数はいっていたじゃないか、と色々考えたところで少年は結論に達した。
「俺らを売る側ね」
 αを風俗嬢として売り出すことはまずない。そんなことをしなくても、前提として金に困ることは上流階級のαにはない。
 そしてこの鑑定眼。月明かりの下で鳩羽色に輝く男の瞳。セールストークと笑顔の鎧。そして程よく人を引き付ける魅力。経営者として模範的な男だった。
「そうそう、頭回るね。今まで誘った子の中で、勧誘だって気付いた奴はいたけどここまで早く見破られたのは初めてだ」
「そこらのΩと一緒にするな」
 あんな低能と俺は違う、という怒りが一瞬見えて、次の街灯に差し掛かったあたりにはもう消えていた。
「Ωにしてはもったいないね。でも、それだけの技術があるってことは結構稼いだだろう?」
「Ωだからだ。持ち得る武器を使って勝負して勝った、それだけだ」
「俺の下で働けば安全なんだけど、と言っても信用はしてもらえないだろうね」
 ため息交じりに言った一言に、少年が予想外にも食いついた。
「信用はするよ」
 危機感が無いようにも取れるその一言は、しかし少年の本心だった。
「あんたが俺を評価するより前に、俺はあんたの評価をしてた」
 はは、と笑いが漏れた。声をかけるより前、窓から彼を見つけ出して、今までのΩ達とは違った、確信のようなものを抱きながら、何日もどうしようかと足踏みをしていた時から、彼はアヤメの事を見ていたのだ。
「情けねぇな、俺」
「本当に」
 組んだ腕に、少年は力を込めた。
「……本当に、待ってたんだぞ」
 少年がどうしてアヤメの事を、確信を持ちながら待っていたのか。それはアヤメの抱いている確信と同じようなものだったのかもしれない。一昔前で言う、運命だったのかもしれなかった。少年の、怒りか不安か、どちらかの感情で擦れた一言にアヤメは申し訳なさを感じた。
「あー、もうすぐ家だけどコンビニとか寄る?」
「コンドームぐらい家にあるんだろ」
「そりゃそうだけどさ、明日の朝飯とか、いろいろあるだろ」
 少年はどこまでも合理主義だった。だが、この時はアヤメが無理のない程度に話題をそらそうとしたことに気付いてやることにした。
「酒は?」
「……どうしてもって言うんなら止めないけど」
「じゃあ、あっちのコンビニが良い。おにぎりのラインナップが良くて美味いから」
 コンビニの中でも、あそこはコンドームの品ぞろえが良くて、明日の朝飯か、夜食になるだろうおにぎりなんて本当はどうだってよかった。
 この完璧な外面をした男になぜ気を使っているのかは考えたくなかったが、とりあえず、アヤメは深夜の、車通りの全くと言っていいほど無い道路の赤信号を、ちゃんと待つ人間だった。

「んで、ここが俺の職場」
「アヤメの部屋とは大違いだな」
一晩を共に過ごしたあと、鶫美はアヤメの店を訪れることにした。個人で続けていくか、このまま拾われるか、彼はまだ迷っていた。その逡巡をアヤメは確かに感じ取っていて、けれどきっとここで働いてくれるという自信のようなものも確かにあった。
「おや、新入りかい?」
「になるかもしれない。こいつはエンラ。店で暇つぶしをしてるだけの変な奴」
「よろしくお願いします」
「畏まらなくていいよ。何でも相談してね」
にこりと笑う和服の男。中性的な声や顔立ちで、鶫美には年齢はおろか性別も読めなかった。そしてアヤメもエンラの素性なんか知らなかった。
「まぁみんなの相談役ってところだな。部屋も見るか?」
「見る」
店はいわゆるファッションヘルスで、部屋は高級感のあるベッドに間接照明、広めのシャワールームとかなり手の込んだ作りになっていた。これまで行ったラブホテルにはこんな部屋はなかったなと思いながら、アヤメの紹介するままにビル内を見て回った。
「なんか思ってたのと違った」
「悪い意味か?」
「そうじゃないけど…αが好きそうな店だなって」
「そりゃあ客の大半がαだしな」
使っていない個室のベッドに並んで腰かけながら、二人は話し始めた。どうしようか、と迷いながら鶫美はベッドに倒れこんだ。天井のクリーム色と、カーテンの隙間から差し込む真昼の太陽が不釣り合いなコントラストを描き出していた。ここで働くと決めればこの景色も見慣れるのだろうか、と寝ころびながら周囲を見渡して、隣で見守るアヤメと目が合った。
「αが嫌いか?」
「劣等感はあると思うけど、嫌いじゃない…かな」
「そういう風に切り離して考えられるなら、十分大人だ」
「……俺は子供のままでいたかったよ」
そう言って鶫美はアヤメに背を向けた。この人の下で働くならそれもいいかなと思い、けれどそうすれば白鷺にはバレやすくなるだろうなとも思った。自分の人生なんだから好きにすればいいと思いつつ、どうしても白鷺のことを考えずにはいられないのが血のつながりなのだろうと納得することにして、まずは目の前の大人に向き合うことにした。
「なぁ、生きてる意味って何だ?」
「何だいきなり」
「人生の先輩なんでしょ」
「そんな立派なものじゃないって」
それに、と続けそうになり、アヤメは口を噤んだ。これは自分自身で感じないとわからない問題だから、ここで中途半端な答えを出しても鶫美のためにはならないだろうと思った。
「そのうち、教えるよ」
それが彼の精いっぱいの言葉だった。

「あ、お帰り~」
「…学校は?」
「テスト期間。勉強するって言って逃げてきた」
「そう。じゃ、部屋戻るから」
「母さん達、夜まで帰ってこないって」
「…だから?」
「一緒にいようよ、せっかくなんだし」
深くため息をついて、白鷺の隣に座る鶫美。こうなると白鷺からは逃げられないことを知っていて、早く部屋で眠るところを邪魔されないように、できるだけ早く切り上げるつもりだった。
「成績、どうなの」
「行きたい大学には足りてる感じ。母さんの行かせたい大学はもっと上みたいだけど」
「またあの母親は…」
「変わんないよね、昔から」
何にも変わってないな、と思いながらキッチンに目をやる。最後に4人で食事をしたのはいつだったろうか。もう二度と、この家にいたとしても家族に数えられないのだと、そしてその事実を何とも思わないことに胸が痛くなった。鶫美の表情が少し曇ったのを白鷺は見逃さず、そのまま白鷺は鶫美に抱きついた。
「ちょっと、何」
「ううん。でもこうすれば、寂しくなくなるかなって」
鶫美は恐る恐る白鷺の背に手をまわした。寂しいのはどっちだ。自分が寂しそうに見えたのだろうか。白鷺が抱きついてくるときは、たいてい白鷺か鶫美のどちらかが限界に近い時だ。大きな氷が溶けていくように、二人の境界が曖昧になることで二人は体温を分かち合っていた。
「鶫美、ほかのαに会った?」
「特に…同僚かな」
「なんか別の匂いがするから…心配」
「心配性め」
そういえば昨日抱かれたばっかりだな、と思いながら誤魔化す鶫美。まぁそこまで深く追及されないだろうと高をくくって、白鷺から離れる。
「なんか、僕このままでいいのかなって思って」
「このままって?」
「母さんの言いなりみたいに生きてるの。僕の意思ってどこにあるんだろうとか、思っちゃう。贅沢だよね」
「そんなことないよ」
「…ごめん、こんなこと言っちゃって」
「いいよ、家族なんだろ」
「…!うん…!」
家族だから、一番近くにいるから近づいてはいけなくて、けれどどんなに遠くたって家族だ。それが二人の呪いだった。

「はぁ、今一番見たくない夢」
鶫美との幸せな会話を思い出しながら、白鷺は一人ため息をついた。しばらく鶫美と話していない気がする。隣にいるのにひどく遠い。そして腕に巻かれた紫の紐を見て、こいつは距離の関係がなくて楽だなとも思った。
「ってわけで来てやったんだけど、居る?」
「もちろん。来ると思っていたよ」
普通の人間のように佇むエンラ。今日は簡素な着物姿だった。
「悩んでいるようだね、何でも言ってごらん」
「ただの妖怪のくせに、偉そうに」
「ただの妖怪でも、君が実感できないぐらいには生きているからね」
「そうだな。…はぁ、疲れた」
「うん」
「僕って何のために生きてるんだっけって」

何のために生きているのか、わからなくなってしまって、消えたいとすら思ってしまうのは傲慢だろうか。
生きていくうちに、大切なものが増えていって、抱えきれなくなってくる感覚があった。白鷺、アヤメ、それと自分自身。この数年が幸せすぎたようにも感じる。このままで生きていくことなんてできない。十八になればきっとこの家には住めないだろう。アヤメと一緒に生きていくのも幸せだと思う。けれど白鷺を見捨てられるほどの非情さも持っていなくて、どちらかしか選べないことを悔やみ、どちらも中途半端に手放してしまいそうで怖かった。そして不器用にどちらも壊してしまうぐらいなら、いっそのこと消えたいとすら思った。ここに生まれたことすらなくなればいいと、そのほうが白鷺にとっても良かったんじゃないかとずっと思っていて、苦しかった。
一人で考えれば考えるほど、生きる意味は分からなくなっていった。ベッドから起き上がる気力もなく、ただ考える。こういう時、白鷺なら、アヤメならどうしただろう。誰でもいいから助けてと、毛布をかぶり、少年はまた浅い眠りの中に包まれていった。
何度か目覚め、眠りを繰り返した所で出勤時間を知らせるアラームが鳴った。眠っていたい訳ではないが体を起こす気力もなく、今日は休んでしまおうと思った。休むべきじゃない、欠勤なんかしたら周囲に迷惑がかかると思っても、いくら思ったところで体は動かないのだった。それならいっそ、早めに連絡した方がマシだった。
「アヤメ、今日休みたい」
「わかった。大丈夫か?」
「…ダメかも」
「鍵、この間渡しただろ、それ使ってうち来ててもいいから」
「ねぇアヤメ、俺って何のために生きてるんだろう」
「…何のために、か」
出会ったばかりの時と同じ質問だったが、鶫美の声色は沈んでいて、答えを考えるのを嫌がっているようにも思えた。生きる理由とは何か。アヤメにとってその理由は娼館を手にする前から決まりきっていて、きっと鶫美も同じ結論に至るだろうと、答えを拒んだ日からずっと感じていた。

「生きる意味なんてね、きっと無いんだよ」
「無い?エンラが妖怪だからじゃなくて?」
「うん。きっと人間として生きていても、同じ答えになったと思うよ。だって意味なんかあったら、意味のために悩む暇なんてないだろう」
「意味のために生きるから…」
「そう」

「その意味のために生きるなら、俺たちは出会わなくても別に良くなってしまう。もし何か意味があるのなら、鶫美の人生の中で、俺と生きた時間もどれだけ有益かって尺度で測るしかなくなるんだから」
「今悩んでるのは、意味のために生きてないから?」
「そう。だからいくらでも悩んでいいし、結論はあってもなくてもいい。もし結論があっても、人生の全てがその結論のためにあるわけじゃない」
「結論が生きる意味じゃない…?」

「その人生の中で、僕らは理由もなく別れて後悔したりするから人間らしいんだ」
「理由もなく」
「一度たりとて、君の人生で理由のある出会いがあったかい?」
「…そう言われると、ないかも」
「ある方がいいとかそういう問題じゃないんだけどね」

「だから、意味なんか持たない方がいいんじゃないかと思う」
「そんな考え方、なかったな」
「きっと俺が教えなくても、鶫美は自分でその結論を見つけたと思うぞ」
「大人ってみんなそうなのか?」
「わからないけど、大半はそうじゃないか。意味のために生きようとしてる奴なんか、過程を結果と一緒くたにしてるだけだと思うけどな」

「…それは諦めじゃなく?」
「うん。だって僕の命に意味があるなら、好きに力を使って君と繋がることなんてなかったはずだしね」
「はた迷惑な」
「ま、この答えで満足してくれ。僕にはこの答えしかないのだよ」

帰り路、無料案内所とカラオケの間から一人出てきた白鷺は、このまま帰ろうか、どこか寄ろうかと迷いながらふらふらと歩いていた。ぽつぽつと風俗店の看板に灯りがつき始め、周囲の人波も帰る人とこれから遊ぶ人に分かれていった。そして流れに任せて歩いていたらいつの間にか駅に着いていて、仕方がないから帰ることにした。家の前の通りまで着いたとき、家の前に人影が見えた。
「鶫美!どうかしたの?」
「別に…白鷺が帰ってきたらいいなと思って」
「それなら早く帰ってくればよかった!連絡入れてくれてもいいのに」
「なんとなく家に居たくなかっただけだから。…この間の約束、覚えてる?」
「えっと、…ご飯食べに行こうってやつ?」
「そう。俺今日朝しか食べてないんだ」
「いいよ。どこでも行こう。鶫美とならどこまでだって行けるから」
「大袈裟。…でも、そうだな。話したいことがいっぱいあるんだ」
そう言って鶫美は不器用に手を差し出して、白鷺は迷わずその手を取った。幸せそうに目を細める白鷺が眩しくて、どういう表情をしたらいいのかわからなくなった鶫美だった。この気持ちも久しぶりだと思うと、胸のどこかが苦しくて、けれど同時に暖かくもあったのだった。

無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。