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逃げ水 後編

冬の間なら日が沈み始める時間だが、今はまだ外には太陽が昇っている。
鳴り響くアラームを止めて、遮光カーテンをゆっくりと開ける。起きて日差しを浴びる事が珍しくなったせいで、以前に増して眩しさが苦手になった。なにせ元から生粋のインドア派だ。
吸血鬼、淫魔、夢魔。夜に生きる人間に付きまとう評価だが、ごもっともかもしれない。周りには淫魔のような奴ばかりだし、マスターに至っては十年近く年を取ってないように見える。
にしても、起き抜けには厳しい日差しだった。
トーストを焼いて、サラダを用意する。テレビはコメンテーターが下世話な話題で盛り上がっていた。適当なドラマを流して、朝食をとる。音楽番組や、一話完結モノのドラマは好きだった。趣味かと言われれば、違うと思うけれど。

七時前が出勤時間だ。と言えば普通のリーマンのように聞こえるが、夜の七時だ。職場は街中で、家から近いという理由もあって徒歩で通勤していた。街の人間の動向も見られるので、客商売の身としては欠かせない時間だった。
普段は目も向けない、とあるビルの一階にあるガラス張りのファミレスが目に留まった。風俗街に近い事もあり、家族連れよりは大学生やここらで働く人に人気があった。実際自分も、家に帰って飯を食べるのが面倒な時は、誰かを誘ってここで済ませる事もあった。
中でも目を引いたのは、窓際の二人席に腰掛ける一人の少年だった。分厚い本に目を向けている。誰かを待っている様子でもない。彼が本から顔を上げた時、彼が目に留まった理由が分かった。
目が、赤かった。

マスターや、自分の店の客からも噂は絶えず聞いていた。ネットで客を引いているだろうと思い探してみた事もあったが、それらしい情報には当たらなかった。客足が遠のいていくことは全くなかったため放っておいても良かったのだが、会ってみたい、その思いは潰える事がなかった。
噂を聞いてからそれほどは経っていない。ジャケット姿が多いこと、茶の混じった黒髪であることなど、断片的に集めた特徴と目の前の少年は合っていた。
どれほど立ち止まっていただろうか。ふと時計を確認すると、開店時間が近づいていた。目の前の彼に話しかけたい衝動を堪え、店への歩みを早めた。

帰り道、またファミレスの前を通る。当然少年は居ない。もしかすると自分は一生に一度のチャンスを逃したのではないかと、焦る。焦ったところでどうもならない事は十二分にわかっていた。
家に着くなり、浴びるように酒を飲んで眠った。
夢すら見ずに目を覚ました。長い瞬きをした、ぐらいの感覚なのにしっかり時計は昼を指していて、睡眠の意味もないくらいに体はだるかった。

そうして二度目に見かけたとき、店番なんか放り出して声をかけて、家に連れ帰った。その少年、海口鶫美は今、目の前のソファーでだらしなく寝転がり、テレビを見ている。
あの頃に比べると仕事の休みを取ることも増えた。鶫美と出かける事も増えたので私服も買った。スーツと寝間着しか持っていないと言った時の、鶫美の呆れ返った顔は見ものだった。
鶫美の方も家を好きに使っていて、実家に居づらいとなると泊まりに来ていた。最近は、大した用事がなくてもバイトが終わると来て泊まっていっているが。
「俺の座る場所は?」
「床」
「さいですか...」
仕方がないので食卓の椅子に腰掛ける。風呂から上がって来たら、鶫美が当たり前のようにいたのだった。
声をかけて、娼家で雇う事になり、しばらくするまで鶫美の本当の年齢を知らなかったが、どうやらまだ十六歳らしい。お役所にバレたらひとたまりもない爆弾な訳だが、訪問してくる偉い人方はα中のα。Ωに興味も持たないし、多分知ったところで何もないだろう。
そしてあれから一年が経とうとしていた。もうすぐ桜が咲き始め、社会には新と名のつく人間が溢れかえる。そんなものに関係はなく、ただ平穏な生活が続く。
声をかけた時、金次第で番になってやってもいいと言っていたが、どこまで本気なのだろうか。番とまでは行かなくても、鶫美とこのまま心穏やかに暮らしていければ、それが一番いいとも思う。
「......何かあった?」
「ん?ないけど」
「こっち見すぎ」
「考え事してたんだよ」
「ふーーーん...」
番組がCMに入り、ソファから起き上がった鶫美が視線に気づいたらしかった。明らかに納得していない、といった声を上げながら冷蔵庫に向かっていく。
「紅茶飲む?」
「頼む」
紅茶のポッドや茶葉などが食器棚に並んだのも、鶫美の影響だ。

「客間の布団使えとあれほど...」
電化製品の段ボールなどを適当に積んでいた部屋を掃除して、鶫美用の部屋にしてある。もちろん布団も用意してあるのだが、どういう訳か鶫美は滅多にそこで寝ない。
「こっちの方が良いんだもん」
理由を聞いても、きっと大した理由は無いのだろう。理性が持たないからやめてほしいと思っていたはずなのに、最近はただ布団に入ってくるだけならいいと思うほど、感覚が麻痺して来た。
「アーヤーメー?」
「何だ、寝るなら早く寝ろ」
「そうじゃないでしょ?」
聞こえるように溜息を吐き、鶫美の方に寝返りを打つ。
「お前な、そんなにシてて疲れないのか?」
「全然。というか本番しないし」
「俺がするなって言わなかったらするだろ」
「そんな事無いと思わなくもないかもよ」
「小生意気」
何か言いかけた唇を塞ぐ。鶫美の全てが、ただでさえ俺を興奮させるのに、回を重ねる毎に正確に快感を与えるポイントを覚えていくせいで最近はやられっぱなしだ。フェロモンのせいか、それとも技術かと考えていた頃が懐かしい。こいつは、どっちもだ。
「ふふ......気持ちいい?」
「理性が焼き切れそうなぐらいにな」
「我慢しちゃダメ」
「ん...」
歳は倍近く離れている。なのにこうなると、鶫美に甘えっぱなしになってしまう。情けないとは思うが、今更取り繕いようがない。
腕の中で鶫美が体を震わせた。わざとだと知っていても、紅潮した頰や、上目遣いに潤んだ瞳、緩く開いた唾液まみれの唇に煽られる。
「噛まれそうになったらぶん殴れよ」
「菖蒲なら、噛んでもいいのに」
「今はまだ駄目だ。首輪付けるぞ」
「窮屈だから嫌」
「だろ?じゃあ守ること」
理性が無くなっている間に番になっていました、なんて事になったら面倒だし、何より番になるならもっと冷静な時が良かった。そして鶫美も本気で噛まれていいと思っているから、タチが悪い。

結局今回は最後まで理性が保った。鶫美も加減していたのだろう。

起きると客間の敷き布団に横になっていた。体がベトついてないあたり、俺が飛んでから風呂にでも入れて運んだのだろう。こういう所で嫌でも、菖蒲が大人なのだと思い知らされる。
「はよ」
「おはよう。朝飯食うか?」
「うん」
先に起きていたらしく、コーヒーを飲んでいた菖蒲が立ち上がる。
「無理するなよ」
「抱き潰した張本人のくせによく言うよ...」
「何だ、嫌だったか?」
ふざけるな、めちゃくちゃ気持ち良かった。そう言うのも負けた気がして、軽いキスで誤魔化す。離れると、頭をぐしゃぐしゃに撫でて、キッチンに向かっていった。

「ねぇ、真面目な話なんだけどさ」
と、向かいの席に座ってサラダを食べていた鶫美。つい身構える。
「何で噛まないわけ?」
「その話か」
もっと突拍子もない話が来ると思っていた。対処できる範囲の事で良かったとはいえ、答えにくい質問ではある。
「ま、一番はお前が未成年って事だな。一応犯罪になるし」
三十過ぎのおっさんが未成年に手を出した、なんて事になれば世間の目は厳しい。もっとも娼家の店主という時点で、世間体など気にしていられないのだが。
「それが殆どだな。お前が十八になって親から独り立ち出来るようになったらまた考えてやるよ」
「噛んでやる、とは言わないんだ」
「気が変わるかもしれないだろ。それにまだ若いんだから、そう焦って決める事でもない」
「あんたも十分若いと思うけど」
「お前はもっと若い」
別に今すぐ噛んでも駄目ではないのだが、まだ十六の鶫美の将来を固定してしまうような真似はしたくなかった。もっと自由に、色んな世界を見てからでも結論は遅くない。その中で気が変わって、好きな人が出来たとしても、その幸せを祝うぐらいの覚悟はあった。
「俺はあんたが心配だよ」
「なんでそうなる」
「こんな優良物件手元に置いておいて、核心に迫るような事何もしないんだもん」
「あのなぁ...」
俺はお前の恋人以前に、親代わりのつもりでいるんだぞ、と言うのは呑み込んでおいた。鶫美にはまともな親がいない。せめてその代わりに、家族というものの感覚を与えたかった。
「じゃあ、家出たらここに住むかな」
「そうするといい。何処か借りるなら保証人にはなってやる」
「違う。菖蒲と一緒にいたいの」
「っは、」
柄にもなく、随分と可愛いことを言う鶫美を見て、なぜ噛まずにいられるのか自分でも不思議になった。
そして幼い恋人は、眩しいぐらいの笑顔でこう言った。

「ずっと一緒に居ようね」

無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。