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アイの為の寂光

母は父のことを愛していると今でも言う。

家に帰り、静かな一軒家に白い明かりを灯す。母はまだ仕事から戻っていない。主食以外の食事の用意をして、適当なテレビをつけて、深呼吸をする。
今日も甘い果実のような臭いが充満している。それでいて不快だ。生ごみのにおいとも違うし、排泄物や吐瀉物なんかとも違う。ただそれは異臭であり、私はその中でここ何週間かを暮らしている。そんな中で普通に生活をすることに、何も問題を感じなくなっていた。

「帰らないの?」
「どうせ親どっちもいないんで」
「大変だね。…昔はうちもそうだったかな」
彼が自分のことを話題に挙げたのは初めてだった。適当に開いていた教科書から目を上げ、少女は続けた。
「白城さんってどんな子供だったんですか?」
「子供…子供ね。…ふふ、今もガキだろうな、幸希あたりに言われば」
でもそういう意味じゃないんでしょう、と窓の方を向いた。高さで言えば三階の窓から覗く空は気が遠くなるほど蒼い。
「少なくとも真面目だったよ。君みたいに。勉強もしたし、それなりの友達付き合いとか、習い事とか。家族で旅行に行ったことも、あったっけな」
「一人っ子だったんですか」
「いや、姉がいた。いろいろあって勘当されたけどね。僕は好きだったよ」
「白城さんで勘当されないのに、お姉さんはなにしたんですか…」
「何もしてないから置物にちょうどいいんじゃない?姉さんはやんちゃしてたね。中学生にはちょっと刺激の強い感じの。でも家を出てったの、今の君と同じぐらいのときじゃなかったかな」
「複雑そうですね」
「お家柄がね」
「……お姉さん、どうやって生きてるんですかね」
「気になるよね。まぁ一回連れ戻されてここに住んでたらしいんだけど、結局会えずに終わっちゃった」
「会いに行かなかったんですか」
「行こうとしたら親父に止められたし、実際行ってみたんだけどドア開けてくれなかったな。あっちもあっちなりに色々、思うところがあったんだろうさ。…兄弟欲しかった?」
「……兄がいればと思うことはありました」
白城さんみたいな、と言いかけて口を閉じた。聞きたくない答えが返ってきそうだったから。そんな彼女を見て、彼も同じく口を閉じた。

帰り道、学校では一応禁止されている音楽プレイヤーをポケットから出して、適当に再生する。最近は携帯を持ち込んでいる子も多いし、これぐらいなら別に、という意識が教師の間にもある気がする。
音楽はわからなかった。ただ好きか、そうでないかでしか曲を選べなかった。芸術はいつもそうだし、最近では好きとは何かすらわからないこともあった。だから覚えるだけの学校の勉強が好きだった。
海月のことも、最初は好きだった。けれど今は何かわからない。彼を彼のまま、永遠に見届けたかった。そして彼が変わってゆく様に、耐えられる気もしなかった。仕事を辞めて酒浸りになった父に耐えかねた母のように。


ほぼ一か月ぶりにその部屋のドアに手をかけた。漏れ出していた臭気の元と、群がる大量の黒い塊を確認した。ハエが部屋の外に逃げないようにすぐにドアを閉めて、電気をつけた。フードの中にもハエがいたらしい。バチバチと音を立て、フードの中にまた死体が増えた。
まず光を反射したのは頭蓋骨だった。頭皮はずり落ちたらしい。背中のめった刺しの跡も見えないぐらいに腐り落ちていて、赤かった血も枯葉のような色になっていた。これでも父親だった。みじめな叫び声をあげて死んでいった。物音に気付いて部屋に駆け付けた時にはもうほとんど死んでいて、母親がひたすら背中を刺していたことしか覚えていない。気づかれないうちに私は部屋に戻って、眠って、次の日も普通に学校に行った。
変わりたくないから、私はいつまでも気づかないふりをしていた。でもきっと、続かない。両親のことも、白城さんのことも。これ以上幸せを失う前に、終わらせなければならなかった。


「卒業式、もうすぐだっけ」
「そうですね」
ダイニングテーブルで本を読んでた彼女は顔を上げた。海月はいつもと変わらずラグの上で書類を広げて赤いペンを持っている。
「高校生になってもここに来る気ならやめておいたほうがいいよ」
「一応、親に頼まれてるんで」
「建前なんてもういいんだよ」
ペンを回しながら上を向く。瞼を閉じて、睫毛に夕日が反射していた。ゆっくりと目を開けて、彼女のほうに向きなおる。
「君の親は工場のパートタイマーと失業中のサラリーマンだって知ってるし」
「…まさか」
「ここの大家は僕なんだ。君が現れた時から、ね」
「なら、どうして私を追い出さなかったんですか」
「理由がなかった」
手元の資料の一番下から、彼女の顔写真付きの紙を取り出した。ほら、と紙を彼女に近づけて、内容が正しいことを彼女は認めた。
「知ってて言わなかった理由は」
「それも特になかったね。どうでもよかったんだよ、退屈だったから。僕はそういう人間なの」
「私が白城さんのことが好きなのも、知ってたんですか」
「そうじゃないかと思ってたよ」
「それも、どうでもいいことなんですか」
「うん」
彼女は言葉を失った。信じたくも認めたくもなかったけれど、それが彼の生き方なのは、近くで見てきた彼女だからこそよく知っていた。
「白城さんの好きな人っているんですか」
「昔はいたよ」
「私は、白城さんにとって何ですか」
「何でもないし、きっとこれからも何にもならない」
「そうですか」
彼女は本を閉じて立ち上がった。対面型のキッチンに置いてあった包丁を手に取って、海月に近寄る。
「あなたの何かになっていいですか」
「いいよ」
そうして銀色が振り下ろされた。

両手で突き刺した包丁を抜いて、彼女は一歩引いた。海月は苦痛に顔をゆがめながら、悲鳴をかみ殺した。少しして、大きく息を吸った後、彼は言葉を紡いだ。
「思ったより、痛いね、これ。肘のあたりまで、切れたかな」
体を震わせながら彼は声を絞り出す。ただ、感想を。
「どうして、…どうして……」
「ごめん、とっさに手で防いじゃった。痛…はは、血だ」
深く切れた右腕を左手で掴みながら、零れる血を眺める。ふかふかのラグの毛が赤く倒れていった。防がなければきっと喉元を切られていただろう。
「さて…死ぬまで話そうか。助けたければそれでもいいし、逃げてもいい」
苦痛に歪みながら、静かに彼は問いかけた。その声色は平淡で、たった今目の前の少女に包丁で腕を十五センチ近くざっくりと切られた人間とは思えないほどであった。沈む夕日が彼の背後から射し込んでいた。
「楽に、した方がいいですか」
「任せるよ。このままきっと死ねるから。結構飛び散ったし。酔ってるときみたいに、ふわふわだ。酒に酔ったことなんか、数えるぐらいしかなかったな」
「白城さん、私、母と同じことをしたんです、今。大好きな人を、殺してしまって、それを全く後悔してないんです。母みたいになんか、なりたくなかったって、なりたくないってずっと思ってたのに。ごめんなさい。ずっと嘘ついて、甘えてた。それでも近くにいたかった」
もとから白かった肌が不健康に青白くなっていくのを見ながら、彼女は告白した。中には幸希に探らせた事実もあったし、彼女しか知りえない感情の吐露もあった。
「うん。…知ってたよ。君の父がいなくなったことは知ってたけど、そういうことだったんだね。……ごめんね、君のこと、ほとんど知ってた。どうもしなかったのは、僕の責任だよ。こう、なったのも」
言葉の合間に息を吸う回数が増えた。もう腕を上げる力もないようだった。
「なりたくない、って思えば思うほど、心にその人の像が結ばれてしまって、引きずられるんだよ。もっと早く、教える機会があれば、よかったかな」
背にしているネイビーのソファがずれて、彼はバランスを崩した。赤く染まったラグに横たわって、彼の髪まで染まっていった。それでも彼女は包丁を握りしめて、彼を見下ろすだけだった。

「意外と死なないな。…そうだ、前、姉さんがここに住んでた話、覚えてる?」
「うん」
「姉さんね、この部屋で薬飲んで死んだんだ」
横たわり、全身の力が抜けていくのを感じながら、それでも彼は話し続けた。
「娼婦やってたんだ。それで心がなくなって、大元から父親に連絡が入って、ここに隔離されてた。夢があったけど、翼をもがれて、結局死んでしまった。わからないんだ、今でも自分で死を選べた理由が。姉さんは最後まで強かったと、思うよ」
息を吸う音が響いて、彼の言葉よりも音自体は大きいようにも思えた。それでも彼女は静かに最期の言葉を聞いていた。
「死のうとしたことは」
「あったよ。でも死にたいんじゃなくて、死にたいぐらいどうしようもないっていうのを誰かにわかってもらいたかっただけだった」
「今もそう?」
「いや、本当に死ねるなら本望。死ぬほど痛いってこれぐらいなんだなって。叫ぶ元気もないや」
それでも微笑む気力はあるようだった。倒れた時についた頬の血液が乾いてひび割れた。彼女や幸希の前で見せたことのない、穏やかで幸福な笑顔だった。そしてその表情を結ぶことに、彼はどこか慣れているようでもあった。
「生きているもの、いないもの。とにかく、この世にある、すべてのものは、存在すればいつか、終わりが来る。終わりがいつ来るか、怯える人も、待ち呆ける人も、いる。この瞬間を…ずっと、待ってた」
瞳を閉じながら、息も絶え絶えながらも穏やかに語る。
「ありがとね」
そうして唇を閉じて、胸はいつも通りに波打っていた。最後に大きく咳き込んで、きっとそれが最後の呼吸だった。そのあとも、彼女が包丁を取り落とすまでは、彼の拍動は続いていた。
「愛しています…それでも後悔は、できないよ……」


ガンガンと無遠慮にノックをして、返事も聞かずにいつも通り鍵のかかってないドアを開けて、手に持ったスマートフォンに返信のないことを確認しながら小柄な彼が入ってきた。瞬間、邪魔するぞとも言えず、部屋に充満する血の匂いと嗅ぎなれたかすかな死の匂いに事態を呑み込めなかった。
ぱちりと部屋の電気をつけて、立ち尽くす制服の彼女と、奥で横たわるかつてよく見た寝顔を確認して、彼はそれまで自らの呼吸が止まっていたことに気が付かなかった。はっと息をして、ポケットにスマートフォンをしまい駆け寄る。
「愛星ちゃん!!」
気づいていたのか、いなかったのか。ともかく彼女は振り返った。何時間ともわからない間彼の死体のそばに立っていた愛星はバランスを崩し、そのまま幸希に支えられた。
「怪我はない?」
「大丈夫です」
「…海月は」
「私が殺しました」
「だよねえ」
愛星を座らせて、改めて友の死体を観察した。いつものお客様とは違い、まだ生きていた痕跡の残る肌色だった。それでももうピクリとも動かなくて、やはり何度見ても慣れない光景だった。
「君のお母さんのことももうじきばれるよ。というか通報が入ったから、家に帰れば君も…わかるね?」
「わかってます。こんな生活、長く続くはずなかったことも」
「はぁ…通報、救急車はいらないよなぁ、死んでるし」
そう言いながら二つ折りの携帯電話を取り出して警察へ通報をしている間も、愛星は座ったままじっと幸希を見ていた。

「こんなこと言うのもあれだけど、逃げないの?」
「もう無駄ですから。あと、幸希さん宛に伝言が」
「海のことだろ」
「…そうです。自分が死んだことを伝えないでおいてほしいそうです」
「死人に口なし。聞かなかったことにして訃報送り付けとく」
そう聞いて、愛星は笑った。海月はそう伝えれば知らせてくれるだろうとも言っていたから。実際のところ、知らせたいのかどうなのか、彼にもわかっていなかったのではないかと感じた。
サイレンが近づいてくるのが二人の耳に届いた。幸希はポケットからスマートフォンを取り出して、録音を停止した。
「ここまでの会話は録音させてもらってるから安心して。何に安心しろって感じか。まぁいい。時間もないし」
「どうして止めたんですか」
「本当のことを話したかっただけ。どうして海月を殺した?」
「……愛しているからです」
「なるほどねぇ。あいつはそういう人間ばっかり引き寄せる」
「白城さんを殺したことは後悔していません。ただ、幸希さんには申し訳なく思っています。…ごめんなさい」
「歪んでる」
「知ってます。だから、歪んでいるなりに償わせてください」
そう言って愛星は立ち上がり、海月の前で立ち止まった。愛しげに頬を撫でて、その向こう、窓のほうへと歩みを進めた。
「これで私の舞台は終わりです。これから私は私だけの白城さんと永遠になってきます」
「それが君の答え?」
「はい」
窓枠を背にして、にっこりとほほ笑む。年相応の笑顔であり、紛れもない狂気だった。ここからなら八メートル近くある。頭から落ちれば確実に、死ねるだろう。
「ありがとうございました」
ひらりと美空色が舞った。


「生きているもの、いないもの。とにかく、この世にある、すべてのものは、存在すればいつか、終わりが来る。終わりがいつ来るか、怯える人も、待ち呆ける人も、いる。この瞬間を…ずっと、待ってた」
そう、形があってもなくても全部に終わりが来る。今思えば海との青春が悲劇でなく幕を下ろしたこと自体奇跡のようだった。昴だっていつの間にか卒業していて、まだ幸希の友人でいてくれているようだし、彼に僕はもういらないだろう。幸希が湯灌師になったのはきっと、死に向き合う人たちを理解するためだったから。今の彼なら、僕の死を受け入れられる。
そして僕を殺すことが愛星にとっての救いであるならば、この命の意味も少しはあったように思える。きっと彼女は壊れてしまうと、幸希から資料を受け取って、父親は死んでいるかもしれないと聞いたときに予想はしていた。僕が死んだあとは知らないけど。
思えばこの命に、生きていることに価値を見出すことを教えてくれたのは海だった。あのとき、僕はきっと一番生きていた。それを知ってしまったからこそ、無意味に死ぬことが恐ろしくて自殺なんてできやしなかった。
だから、
「ありがとね」
僕の死に意味を与えてくれて、ありがとう。

無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。