ねじれの位置
「じゃあなー!」
「おう」
「また明日!」
小学生ならもう眠っている時間。しかし高校生の彼らは、まだまだ遊び足りないとでも言うように大声を張り上げる。友人と別れ、それぞれ自転車に乗り込み帰路に就く。
さて、いいぐらいの時間になったな。そう思い、自転車を少し遠回りさせる少年がいた。
コンビニに自転車を向ける理由は、人を迎えに行くというごくありふれたもの。しかし彼らの家庭環境がそれをややこしくしていた。
スマートフォンに通知が来た。「今終わった」という簡潔なメール。そして少ししてから、彼とよく似た茶混じりの黒髪の少年が出てきた。
「ごめん、待っただろ」
「いいの、僕が勝手に来たんだから」
「気を使わなくてもいいのに」
「僕が、夜に鶫美を一人で歩かせるのが嫌なの。これは僕の我儘。いい?」
強引な奴、と鶫美は思う。同時に、憎めない奴とも。
夜の街を歩く。人通りの少ない住宅街で、街灯の数も少ない。けれどその少なく頼りない光と、はっきりしない月明かりを反射する川が美しかった。白鷺は自転車を押しながら、鶫美に合わせて少し早歩きをした。
「白鷺、今日は何してたの?」
「友達とカラオケ。可愛い女の子を誘うダシにされちゃって」
「相変わらずだね」
「別にいいけどさ、それで一緒に遊んだところで上手くいく訳が無いと思うんだよ」
「まぁな。……お前は何かいい話無いの?」
「えっ」
鶫美からそう言った話が出ると思っていなかった白鷺は、つい固まってしまった。そりゃあ、無い事はない。たいていは告白されて、断りづらいから付き合って、飽きて振られる。本気で他人を好きになったことは、多分無い。
「……うーん、どうせ半年もしないうちに別れるからなぁ」
「どいつもこいつも顔に騙されてるな」
そう言って、家では見せてくれない笑顔を浮かべる鶫美を見て、もうどうでもいいかとも思った。
「いや、鶫美も綺麗なんだから気を付けてよ?」
「分かってる。聞き飽きた」
「心配なんだからな!」
「なんでお前がそんなに心配してるんだよ」
「分かんないけど心配なものは心配なの」
鶫美も自分と同い年なんだから、出る幕ではないと分かっている。だが、それはそうとして、白鷺はどうしても心配だった。
「変な奴」
「そうだな」
もしかしたら自分は、鶫美が自分の知らないところへ消えていくのが嫌なのかもしれない。我儘なことは重々承知だ。
「鶫美は、さ」
「どうかした?」
泣きそうな顔をしている白鷺に、鶫美は驚いた。何か悪い事でも言っただろうか。
「いいや、やっぱ何でもない」
いつまで傍にいてくれるのだろう。離れるのが怖い。けれどあの家が鶫美にとって、良くないものであることは明白だ。ただの兄弟に、離れてほしくないと強要するのはおかしい気がした。
「……いつか言いたくなった時でいいから、言って」
「ありがと」
「ほら、家着いたから離れて。先入ってるから」
腕を小突いて、さっさと家に入っていく鶫美。自転車に鍵をかけて、一息ついてから玄関のドアノブを引いた。
「お帰り、白鷺。ご飯出来てるわよ」
「ありがとう母さん。すぐ食べるから出しておいて」
「ちゃんと手、洗うのよ」
パタパタとキッチンへ向かい、手際よく料理を温め直す母。当然、白鷺一人分しかない。制服を脱ぎ、父親のスーツの隣にかける。
鶫美は、なんて訊かない。そんなことを言ってしまえば母親の態度は一気に冷たくなるし、ソファーでビールを飲んでいる父親も、部屋へ逃げてしまうから。
「いただきます」
ここで最後に、鶫美と一緒に食事をしたのはいつだっただろう。
「ところで白鷺、テストはどうだったんだ?」
「いつも通りだよ」
風呂から上がってテレビを見ていたら、父親がスマホから顔を上げて話しかけてきた。平日だというのに、ロングの三缶目が開いていた。酒には強い方だからこの程度では酔わない……当然、白鷺も。
「それなりに良いんだけどね、国語以外は」
「また国語か」
白鷺は勉強が得意だった。決して頭は良くないが、テストでいい点を取るためのルーティンは得意だ。けれど国語だけはどうも駄目だった。
「漢字系は落とさなかったから、まぁ最低限って感じ」
「大学の推薦が取れるなら何も言わないがな」
「テスト以外でカバーしてるから大丈夫だって、多分。万が一推薦取れなくても、一般受ければいいだけだし」
「白鷺なら大丈夫よ」
「そうか?」
「あはは、信じてよ父さん」
今のところ、国語以外はすべて評定五を取ってきているから、過去の事例から言っても推薦は取れそうだった。周りもそういう評定の人間ばかりで麻痺しているが、志望校に対して良過ぎるぐらいの評定だ。
勉強はもちろん、運動神経も良く、手先もそれなりに器用だがどうにも国語は点数が取れなかった。作者や登場人物の考えていることが読み取れず、授業中に教師が言っていたことをそのまま書き、たいてい外す。
反面、鶫美は国語の成績が良かった。むしろ漢字が足を引っ張っているぐらいで、文章題で間違っているところは見たことが無い。家で勉強をしていないのに、どの教科も平均点以上は確実に取ってくる。
一言でまとめると要領がいい、という事だった。高校に行かなかったのが、悔やまれるくらいに。
コン、コン、コン。
勉強机に接する壁から聞こえる、ノック音三回。それが兄弟の秘密の合図だった。同じように叩き返す。
少しして、カチャリとドアノブが回る音。両親が見ていないか、廊下を振り返って確認した後に部屋に入り、静かにドアを閉める。そして、溜息をついた。
「そんなに警戒しなくても」
「お前は何にも分かってない」
白鷺が座っている勉強机の横にある、ベッドに腰かけて鶫美は言う。脇の棚にあった週刊誌の最新号を取り、そのまま横になる。
「分かるなら、楽なんだけど」
「白鷺には無理」
漫画から目は離さない鶫美。白鷺も机に向かい、勉強を再開する。気を紛らわせたいときは、いつも数学を自然と選んでいた。今日はそんな気にもなれず、大きく伸びをして鶫美の方に向き直った。
「今度一緒に飯食いに行こうよ」
「奢り?」
「それでもいいけど」
「ふーん。てか急に何」
「鶫美と一緒に飯食いたいの、母さんに文句言われないとこで」
「なんだそれ」
鼻で笑いながら顔を上げた。ドレープドネックが乱れ、白い首や鎖骨が見えていることに鶫美は何も頓着しなかった。白鷺はそれを素直に美しいと思い、それから少し後ろめたくなって、目を逸らした。
「ダメ?」
白鷺のこの顔が、鶫美はどうしても苦手だった。心底悲しそうな、犬みたいな顔。甘え上手なことは百も承知で、流されないぞと心に決めていても、やはり負けてしまう。
「……いいよ」
瞬間、白鷺が向日葵のように笑った。目が爛々と輝いて、その眩しさは鶫美にとって毒だった。
白鷺は立ち上がって、鶫美の寝転がるベッドに腰かけた。
「何食いたい?やっぱ肉?」
「言い出したんだからお前が決めろ」
「え~。一緒に行くなら一緒に決めようよ」
「わかった、わかったから離れろ。うるさい」
寝返りを打ってそっぽを向く鶫美の後ろ髪をすくう。白鷺よりも黒くて、細くサラサラの髪をいじりながら、白鷺は幸せそうに笑っていた。時々白鷺の方に目線を向けて、その表情に胸が苦しくなり、また逸らす。
「……くすぐったい」
「あ、ごめん。触り心地良くてつい」
「そんな変わらないだろ」
手を伸ばす鶫美。器用そうな印象の長い指に、丁寧にやすりをかけた爪が光る。耳のあたりの髪をくしゃくしゃと撫でて、それから頬を軽くつねった。あまりに白鷺がだらしなく笑っていたからだった。
「ふふ、痛いよ」
そう言いながら、より笑顔になった白鷺を見て、嫌でも幸せな気持ちが沸き上がった。
鶫美が今置かれている良いとは言えない状況の、原因の半分ぐらいは、白鷺のせいだと分かっている。それでも憎み切れないのは、血が繋がっているとか、ずっと一緒にいたからなんて理由ではなく、今この笑顔に救われているからなのかもしれなかった。
「お前って弟居るんだろ?」
「そうだけど」
昼休み、弁当を囲むグループの一人がそう切り出した。白鷺はそこはかとなく嫌な予感がした。
「紹介してくれよ~、Ωだろ?」
「マジ?白鷺の弟とかレベル高そう」
「えー……」
やっぱり。
「いーだろ一回ぐらい」
「写真ないの?」
「てか高校どこ行ってんの」
鶫美ならこんな奴ら、相手にもしないとは分かっていても、やはり会わせるのは嫌だった。ただでさえ不安定なのだ。それは白鷺の影響も少なくない。
「嫌だよ、多分めちゃくちゃ怒るから」
厳密に言えば嘘だ。きっとこういったものの相手をして不満は抱くが、それを白鷺にぶつけるような真似はしない……多分。そして、内側に貯め込んでしまえばしまうほど、白鷺は自分を許せなくなる。
今だって、自分を許せていないのだから。
「あー……なんかごめん」
深刻な顔をしていたらしい。場の空気から白鷺がそれを察したのは、五時間目が終わった後の休み時間だった。
しかし相手も諦めの悪い男子高校生だ。
放課後の掃除当番。白鷺は理科室の掃除が割り当てられていて、昨日のカラオケもこの時間に決まった。つまり掃除など真面目にしていなかった。
「なぁ~、写真ぐらいあるだろ?」
「何の?」
「弟のだよ。こっそり見せろ」
「無いって、撮らせてくれないし」
「超美人だろ?」
「まぁね」
それを聞いた周りの人間も、見たいだの、羨ましいだのと騒ぐ。こうなったら意地でも会わせてやらない。鶫美がどうとか関係なく、ただの嫌がらせだった。
「それもいいけど、昨日の子とはどうなったんだよ」
「ダメだったから言ってるんだろ」
「やっぱりな」
「数打てば当たる程度で弟は紹介しないよ」
「お前も人のこと言えないだろ」
「長続きしないだけだって」
席を外していた監督の教師が戻ってきて、いかにもいままで真面目に掃除していましたよ、という空気に切り替える。結局大して真面目に掃除なんかしないで、今日も解散だ。
「あ、海口!ちょい待って!」
「どうかした?」
教室でも目立つ方のαの女子が、窓から顔を出して呼び止めてきた。割とよく話をする、実穂だ。今日はなんだか騒がしい日だと白鷺は思う。
「これから暇?」
「暇だから帰ろうとしてるんだけど」
「じゃカラオケ行こうよ」
「いいけど…」
「おっけ!玄関で待ってて!」
今の会話が全て幻覚だったらどんなに楽だろうか。というか、適当な理由を付けて断ってしまえばよかった。白鷺がいくらそう思っても、時すでに遅し。
「ちょうどいいところに」
「うわ嫌な予感」
「女の子とカラオケ行きたい?」
「行くわ」
生贄、確保。鶫美の話題を出した罰だ、とほくそ笑む。
「あれ、そいつもいたの?」
「そっちも増えてない?」
お互い様だった。実穂が連れてきたのは、目立つと言えば目立つけど、言うほど印象深いわけでもない、中の上くらいの女子。顔は知っていたが、他のクラスだから接点はない。
白鷺はこの流れを、この半年で十回はやった気がした。体よく言えば、紹介。意地の悪い言い方に変えるなら、お見合いごっこだ。
「まぁいいや、行こ」
通学路は狭いので、四人が固まって歩くのは難しい。白鷺の隣を歩いていた実穂が、スマホを見ろというジェスチャーをしてきた。
見ると、いつものだよ、ごめんねといったメッセージが入っていた。気にしないで、実穂は悪くない、そう返す。そういうところが女たらしなんだぞ、との忠告。痛み入ります、と白鷺。実穂は白鷺の横っ腹に殴りを入れないと気が済まないな、と思い、思っていることに気が付いた頃にはもう手が出ていた。
「ドアホ」
「実穂が一番よく知ってるでしょ」
彼女はこの高校に入って、初めて出来た彼女だったのだから。
「どうだった?あの子」
実穂がカラオケの会計を済ませて、残りの二人より先に出てきた。財布はまだ、白鷺が選んだのを使っているらしい。
「どうもこうも、よく知らないし」
「知っててもうやむやにする癖にね」
「当たりが厳しい」
白鷺は笑いながら、実穂の変わらなさに感謝した。それに、今は何も引きずらずに、良き友人でいてくれていることにも。一番の理解者でいてはっきりと物申す。そういう所が、気楽だった。
「まぁ、今でも好きとかそういうの、よく分からないから」
「でも断らないんでしょ?」
「断れないって言ってくれ」
「やーだね」
一歩引いて、ターンして舌を出す。短いスカートと腰に巻いていたセーターが風を含んで広がる。そのまま「メイク直してくるー!」と言って駆けていってしまった。
「白鷺お前、実穂ちゃんとより戻したのか?」
「な訳ないだろ」
「本当か~?だってあれから実穂ちゃん、誰とも付き合ってないだろ」
「……初耳だけど。とにかくあいつにはもう恋愛対象として見られてない自信がある」
好きと言われたから好きと返す。それが恋愛でない事を教えてくれたのは、実穂だったから。
「お前はどうなんだよ」
「最初から成り立ってなかったから、恋人として」
「よく分かんねーな。あ、実穂ちゃん戻ってきた」
四人が店先に再度集まって、それから実穂が騒ぐ男を連れてさっさと帰ってしまった。うまくやれよ、と白鷺を睨んで口を動かした。うまくやる、の定義が白鷺にはどうしても分からなかったけれど。
「あー、時間大丈夫?」
「うん。もう少し遊んでもいい?」
「いいよ」
その女の子はきっと、ものすごく勇気を出して白鷺の袖をつかんだ。それを白鷺はごく自然に、自分の手にすり替えて握った。
「行こうか」
その笑顔はあまりにも優しすぎた。誰もが恋に落ちるくらいに。
「ただい、」
玄関から上がってきて正面に見えるダイニングに、鶫美が座っていた。それは今日の出来事全てが吹っ飛ぶぐらい、衝撃的な事だった。
白鷺は思わずリビング、吹き抜け、廊下を見まわして、改めて鶫美に向き直った。笑えるくらい慌てふためいていた。
「な、なんで?」
「どっちも帰らないってさ」
鶫美がダイニングテーブルに置かれたメモを目の前に掲げる。
白鷺へ、今日はお父さんの実家に泊まってくるので帰りません。夜ご飯何とかしてね。困ったら電話するのよ。その短い文章群の中に、やはり鶫美という文字列は出てこなかった。
「やったぁ……」
「何がそんなに嬉しいんだよ。気持ち悪いぞ」
思わず笑ってしまう。この家で、親を気にせず鶫美と暮らせるのが、白鷺は何より嬉しかった。その権利を奪ったのが白鷺自身だったのだから。
「鶫美は飯食べた?」
「まだだけど」
「じゃ一緒に作ろ!何にする?」
「一緒にって、ガキじゃないんだから」
「まだまだガキなの、そうだグラタンにしよう!」
「わかった、わかったから制服脱げ。はしゃぎすぎ」
ぱたぱたと、踊る心に乗せた足音が響く。手早く制服から普段着に着替えキッチンへ向かうと、鶫美は材料の準備をもうしていた。
「あー……泣きそう」
「何だそれ」
思わず、立ち上がった鶫美に抱きついてしまう。こんなの幼稚園以来じゃないか、と鶫美は思った。そして本当に泣きそうになっている白鷺を見上げて、背中に手を回さないわけにはいかなかった。
「ごめんね、ごめん、鶫美……」
「いいよ、白鷺が気に病むことじゃない」
「でも」
「白鷺は笑顔の方が似合うから、笑って?」
白鷺の頬に零れた涙を、鶫美は丁寧にぬぐいながら笑いかけた。
「無理、しばらく泣かせて」
「しょうがない奴」
それから本当にしばらく、白鷺は鶫美の胸を借りて泣いていたし、一生鶫美が両親から勘当されて無視され続けることを、いいよなんて言ってしまう事がどうしようもなくやるせなかった。鶫美には許されたくない。許されるより、ずっと憎まれていた方がまだ楽だ。楽だと分かっているから、今許されていることが罰のような気もしてきた。そうして鶫美を疑ってしまう事もまた苦しかった。
声を上げて泣くのも久しぶりで、時々呼吸も忘れていた。苦しそうに嗚咽を上げる白鷺を、鶫美は何も言わずに支えていた。
こんなところを万が一両親に見つかったら、今度こそこの家に居られないなと思いつつ、鶫美はこの頼りない半身を突き放すことなんて出来なかった。目を閉じていないと、涙がこぼれてしまいそうだった。
それから白鷺が泣き止んで、グラタンを二人で作ってダイニングで向かい合って食べた。白鷺は、間違いなく今までで一番おいしいものを食べたと言って、口には出さなかったけれど鶫美も同じ気持ちだった。
「鶫美」
後片付けもすべて終わらせて、テレビ前のクッションでスマホをいじっていた白鷺が口を開いた。
「何」
同じく二人掛けのソファーで横になり、本を読んでいた鶫美が応える。
「隣行っていい?」
「……好きにすれば」
そうして体を起こした鶫美の隣に白鷺は腰かけ、鶫美にもたれた。
「重いんだけど」
「今日だけだから、な」
普通の兄弟はこうするのだろうか?と鶫美は疑問を抱いたが、そもそも普通ではなかったことに気付き、考えるだけ無駄と結論付けた。
泣き疲れて、腹も満たされたとあれば後は眠るものと相場が決まっていて、例に漏れず白鷺は寝息を立て始めた。スマホが手から滑り落ちそうになり、鶫美は出来るだけ体を動かさないようにそれをキャッチした。
「うわ」
見たくないものを見てしまった。メッセージの通知なのだが、女から今日は楽しかったよ、なんて来ている。彼女いたのか、と隣で寝息を立てる幼い寝顔を盗み見る。この、ドが付く甘えたに付き合っていける奴がいるのだろうかと鶫美は不思議に思った。
と、スマホを置こうとした瞬間に通知が来て、ついいつもの癖で見てしまう。グループで、白鷺の弟の話題……つまり鶫美の話題が出ていた。どうやら白鷺に似た美人であることしか知られていないらしい。あまり似ていないと思うけど、と鶫美は思う。写真まだかよ、と新着メッセージ。
そういえば白鷺と一緒に写真を撮った記憶が無い。中学校の修学旅行で一枚だけあった気がするけれど。
寝息が相当深い。これで明日の朝まで動けなかったらどうしようとも思う。その前に起こして部屋まで持っていけばいいのだが、こんなに気持ちよさそうに寝ている奴を起こすのも気が引ける鶫美だった。
というか兄弟だとかそういう細かい理屈を一切抜きにしても、αとΩが長時間近くにいるのはいろいろと宜しくない気がしてきた。鶫美は、意を決してこの大型犬を起こすことに決めた。
「白鷺起きて。腕痺れた」
「あれ、俺寝てた?」
思いのほかすっきり起きて拍子抜け、と思った鶫美だったが。
「ん……つぐみ、いい匂い」
「あ、こら」
少し体格のいい白鷺に組み敷かれると、動きが取れなくなる。これが寝ぼけているだけならいいが、もしヒートだったらと、鶫美は背筋が凍った。
「白鷺……?」
白鷺の腕から力が抜けて、体重が鶫美にかかる。そのまま寝ようとしていることに気付き、鶫美は思い切り頬をつねった。
「寝ぼけてないで、どけろ……!」
「いた、つぐ…み…?」
白鷺の焦点はまだ合わない。夢うつつといったようで、まばたきを繰り返す。そして一瞬、目の色が変わった。鶫美はもう駄目かもしれないと思ったが、次の瞬間には白鷺はソファーから崩れ落ちていた。
「うわっ、鶫美?って、俺今何してた?うわ、うわー……っ」
「いや、単に寝てただけ、だけど」
「ほんとに俺何にもしてない?大丈夫だった?」
「うん。……白鷺、落ち着け。本当に何もないから」
「でも……いや本当にごめん。マジでごめん」
「お前はいっつも謝り過ぎ。大丈夫だから、な?」
床で正座をしている白鷺の頭をそっと撫でる。こうすると本当に犬みたいだった。
そうしてあーだのうーだの唸る白鷺をなだめすかして、どうにか部屋に押し込んだ。鶫美が一階に降りていく足音を聞きながら、白鷺は先ほどの夢うつつを思い出していた。
目が覚めたら、鶫美を押し倒していた。
こういったシチュエーションが無かったわけではない。寝起きだったから焦ったのもあったが、何より……鶫美だったから。一番大切にしたい人に、何か取り返しのつかない事をしてしまったのではないか。それが怖かった。それに加えて、あの美人は心臓に悪い。
「はぁ……」
いろいろと頭が混乱しているところで、ドアがノックされた。返事をするとすぐドアが開いて、スマホを持った鶫美が入ってきた。
「これ、居間に忘れてた。……白鷺、具合悪い?顔赤いけど」
「ありがと。気のせいじゃないかな」
そう言って笑うのが白鷺には精一杯だった。鶫美はまだ納得いかないような顔をして、けれど何も追及はしなかった。
「あのさ、白鷺」
「ん?」
目を伏せて鶫美は言う。
「明日からはこういうの、絶対するなよ?」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に。でも、今日のうちはまだ許してくれるよね」
白鷺がそう言うと、鶫美は呆れたように笑った。そうして体を静かに預けた。
「おちつく…」
「甘えん坊さんすぎ。彼女に呆れられるぞ」
「……何で知ってんの?」
「スマホ、通知来てたぞ」
「あぁ、そういう」
それでも抱きしめる手は緩めない。
「ねぇ、俺たちいつまでこうしてられるかな」
「そう長くはないだろう」
「離れたくない、なぁ」
「勝手なこと言いやがって」
そう毒を吐きながらも、鶫美もちゃんと抱き返していた。
「ずっと一緒に居てよ」
「無理だ」
「どうして」
「それがお前の幸せじゃないからだ」
「そんなこと言わないで」
お願い、やめて。声に出来ずに、きつく抱きしめた。鶫美は今ここで、白鷺の事なんか嫌いだと言えたならどれほど楽か、と思い、けれどそんなことは絶対に出来なくて、苦しかった。
「幸せでいろよ、俺のために」
いっそ見捨てられたら、どんなに楽だっただろうか。
「見たことないぐらい陰気な顔してるけど」
「…、いつの間に」
先輩から譲ってもらった屋上の鍵を使って、ぼうっと下を眺めていた白鷺の背後に、同じく勝手に作った鍵で入ってきた実穂がいた。
「飲むならあげる」
「貰う」
「あいつらは気付いてないけど、なんかあったでしょ」
「色々ね」
実穂から手渡されたイチゴオレにストローを刺しながら、白鷺は答える。甘さで頭痛がしてきた。
「俺、間違ってたのかなー」
笑いながらこぼす白鷺。実穂は黙って、次の言葉が紡がれるのを待っていた。そんな笑顔なら笑わない方が良いのに、と思いながら。
「幸せになれなくても、ただ一緒に居たいだけなのに。……ダメだなぁ、幸せでいて、なんて言われたらもう何も返せなくって」
大切な人を思って苦しむその顔を向ける相手なんて、自分でも、ましてや昨日紹介したあの子でもないと実穂は思った。そういう次元の話ではない。実穂はそのスタートラインにすら立てていなかったことを、笑ってしまうぐらいよく分かっていたから。
「絶対に諦められないのに」
今度こそ、あの手を掴んで離さない。手を伸ばすことを、躊躇ったりしない。そう決めているのに、鶫美がそれを望んでいないとしたら?
「……怖いんだ」
震える手で屋上のフェンスを掴んだ。ガシャン、と一瞬大きな音がしてすぐオレンジ色の空に溶けた。濃い緑の染料の粉が、雪のようにはらはらと落ちていった。
その感情の名前を知らない白鷺を、実穂は心から可哀想に思った。