逃げ水 前編
彼と出会ったのは三年前の初夏だった。
朝、目覚ましよりも早く遮光カーテンの隙間から射す光に起こされる。久々の連休で、普段の寝不足を解消するかのように眠っていた。気持ちの良い体の気怠さを引きずって、少し高い豆を挽き、コーヒーメーカーにセットする。下手な人間が淹れるより、プロの機械に任せた方が美味しい。そういってコーヒーを自分で抽出しなくなったのは、いつからだったろうか。昔から捻くれていたんだなと、生活の端々に思い知らされる。
今は七時。こんな時間に起きているのは徹夜した時ぐらいなものだから、新鮮だった。朝の情報番組を見るのも何年ぶりだろうか。トーストを焼き、ベーコンエッグを作る。淹れたてのコーヒーはいい香りがした。
「いただきます」
自分の声すら久しぶりに思えた。仕事以外で喋る事もなくなって長い。友人と呼べる人が居たのはいつまでだったろうと思い、考えるのをやめた。両親はすでに他界している。恋人ももちろんいない。三十の前半で、この後の人生既にお先真っ暗だ。雀の鳴き声が頭に響いた。
連休も今日で終わりで、何かしなければという思いと、ゆっくり休みたい惰性が戦争をしていた。長らく積みっぱなしの本でも読もうかと手にとって、目が文字の上を滑っていく感触が悲しくて、元に戻した。出かけようにも、欲しいものが無い。ついでに言うと、仕事用のスーツと寝間着のスウェット以外に服を持っていない。スーツに袖を通すのもなんだか面倒だ。
こんな奴を仕事人間と言うのが正しいかもしれない。いつのまにか、仕事以外の全てを失っていて、それに気づいたのはもう取り戻せなくなった後だった。金ならもう働かなくても慎ましく暮らしていけるぐらいはある。けれど生きる意味が無かった。
結局スーツに着替えて街に出た。何日も見た目に気を遣っていなかったせいで、髭が伸び放題だった。髭を剃り終えて鏡を覗くと、顔色はいつもより良かった。
あてもなくショッピングモールを歩き回ったが、やはり欲しいものは見当たらない。普段つけている時計や指輪を新調しようかとも考えて見てみたが、体に馴染んだものを変えるのがなんとなく面倒だった。同じ理由でスーツも買わなかった。最後にいつもより大きめのスーパーで、冷凍食品を買いだめて車に乗り込んだ。品ぞろえは豊富だったが、買ったものを見てみるといつもとあまり変わらないように思った。
夕方になり、今日の夕食の事を何も考えていなかったことに気づき、出前の中華を食べた。一日が終わろうとしている。明日が仕事である事に安心した。意味のない日をこれ以上続けられなかった。
「お久しぶりですね、菖蒲さん」
「あぁ、お陰でゆっくり休めたよ。お疲れ様」
数日の店番をしていた後輩が飛びついてくる。小さな娼家なもので、店番を出来る人間は自分とこの犬っぽい男しかいない。もっとも、人間はもっと大勢抱えているが。
「何か変わったことは?」
「んと、十七番のカズが一週間休みになりました。それ以外は特に」
「そうか。じゃあ書類作ったら今日は上がりでいいよ」
わかりましたー、と言って事務所の方に向かっていった。開店まではまだ少しある。少しも変わらない、このカウンター越しの景色に安堵した。高めの椅子に腰掛けて、夜の街を眺めた。
「ッー...」
店のシャッターを閉め、朝の空気に深呼吸をする。澄んだ青い空気に時折混じる酔っ払いの吐瀉物、それが自分の生きる世界だった。
「アヤメさん、お疲れ様〜。今日も客の入りは良かったかい?」
「あぁ、上々かな。そっちも朝までお疲れ様です」
何軒か離れたバーのマスターが気さくに話しかけてきた。夜通し働いたあとだと言うのに、疲れている様子はなかった。年もあまり離れていないのに、この差はどこから来るのやら。
「こっちは程よく体も動かすからね、あんまり疲れる事はないよ。...ところでさ、気になる話を聞いたんだけど」
少し声のトーンが下がった。
「赤い目をした、小柄なΩの男の子の話。よくある援交って言えばそうなんだけど、ウチの客が何人か話しててね...妙に評判がいいんだよ。高校生ぐらいみたいだからお小遣い稼ぎだと思うんだけど一応。アヤメさんなら近づくだけでわかるさ」
「成る程。助かるよ」
よほど良いフェロモンを持っているか、技術がいいか。見た目が良いだけならリピーターはつかない。放っておけば娼家から客を吸われる危険性があるかもしれない、ということだろう。しかし。
「噂になるほど評判のいい少年なぁ。会ってみたいものだよ」
「はは、違いないね。あ、今のは内緒な。嫁に怒られる」
それじゃ、と残してマスターは去っていった。朝日にふさわしい笑顔だった。
店の雑務をこなし、家に帰って眠りに就くまで、頭の中は赤い目の少年でいっぱいだった。店の存続の問題ではない。娼家や仲介屋の手を借りず、一人でそれなりに客を取る手腕を持っていながらまだ高校生程度。そんなことの出来る人間が果たして本当にいるのだろうか、という興味があった。
「会える、だろうか」
この感情は、学生時代の無茶な、恋に似ていた。
「っくち」
「あら、風邪かい?」
「いえ...花粉でしょう」
これが常連のおばさまで助かった。仕事帰りのリーマンだったらキレられていたかもしれない。
「お会計六百七十二円です。千円ですね。小銭とか大丈夫です?」
「じゃあこの中から取ってもらえるかい。悪いねぇ」
「いえ。二十二円あるみたいなので足しておきますね」
こうして小さな気遣いで、少しだけ社会がうまく回るのは嬉しい。コンビニのバイトはやる事が多い割に給料が悪いだと言うけれど、自分は嫌いではなかった。
「お釣りお返しします」
「ありがとう。はい、これはお兄さんのね」
「えっ、でも」
「いいのよ、いつも頑張っているの見てるから」
「ありがとうございます...頑張りますね」
こういう、ちょっとしたいい事が起こったりするからだ。
手渡されたジュースに、再発行したレシートを貼ってロッカーに入れる。ここでは自分がΩだろうと、中卒だろうと、仕事が出来れば何の問題もない。認められているという実感が得られて、嬉しかった。