物語

今の自分の書くものの根底には嵐が丘があると思う。

いや厳密に言うと違うと思うけど。その筆頭がこの日記というわけで。
そもそも嵐が丘の内容覚えているかって言われると、自信が無いわけで。

なんでこんな話を突然しようかと思ったかというと、理由なんて特にない。自分の面白いと思ったものを共有したいわけでもない。むしろ、嵐が丘を面白いと思ったことは、あんまりない。

初めて嵐が丘を読んだのは小学五年生の時だったと思う。読み返した記憶があるのは中学一年生と中学三年生の時だ。つまりここ三、四年ほど読んでいないことになる。そりゃあ、覚えてないわな。
私はカタカナが苦手だ。読もうとすると目が滑るし、どこが字と字の間なのかがわかりにくい。なので登場人物の名前がカタカナだと、まず読む気を失くす。以前友人が罪と罰を読んでいたが、名前の長さに笑ってしまった。読める気がしない。
嵐が丘はイングランドの小説だ。二つの家庭の人間が、複雑な人間ドラマを展開する。そして親と同じ名前の子供とかが出てくる。私が嵐が丘を理解できない理由の、大部分がここにある。

どんな小説か気になった人はまずWikipediaで調べてみるといいと思う。小説をWikipediaで調べるとかネタバレのオンパレードじゃねーか、と思うだろうが、嵐が丘は結末とかの重要性が薄い気がする。
当時の人たちの酷評なんかを読んでいると、確かになぁとも思う。それは大体が話の構成についての文句だ。私なりに言うと、フルコースを頼んだ一品目がめちゃくちゃジューシーなステーキで、次が新鮮な野菜のサラダ、食べるのがもったいないほど美しいデザート、その後に大きなふかひれのスープが出てきて、最後に濃厚な卵と香り高いチーズのパスタが出てくるような、まぁ訳の分からない構成をしている。並べ直せば美味しく頂けるのだが。
フルコースを望んでいた人なら激怒するだろう。けれど、おいしいものが食べたい一心ならば、多少訳のわからない並び順でも、一つ一つがおいしければまぁいいやとなるだろう。私は貧乏性だから、なる。

人間ドラマを展開すると書いたが、もっと詳しく言うなら、ドロドロの恋愛や、憎悪、欲望、絶望が絡み合う。恋愛とは言っても、純粋な恋なのかはわからない。別の人の策略で恋と錯覚しているのもあったはずだ。
舞台は閉鎖的で、人間はみんな愚かだ。偶然の悲劇と、人為的な悲劇が交差する。だがそれは、私たちには何も関係が無い。

それのどこが私の書くものに影響したかというと、私が事件を重要視せず、その中で動く人の感情を描くことが好きになったところだろう。
正直、つるべ打ちのトリックが描ければ面白いと思うし、誰かが死ぬことから話を始めるならもっと人を引き込めると思う。
けれど私は、同じような経験のある人を徹底的に傷つける文章を書きたい。
もちろんたくさんの人に読まれるならそれはいいことだと思うし、私だって嬉しい。アンチとかが出てきたらめちゃくちゃ喜ぶと思う。ファンアートとかがあれば狂喜乱舞して半日返信に迷った挙句、多分ありがとうございますとしか返せないと思う。
そう言う大衆性は今の文にはない。

私がニート生活をしている間、ちょくちょく映画を見に行った。中でもカメラを止めるな!は間違いなく大当たりだった。きみの鳥はうたえるは、ちょっと期待外れだった。
人に勧めるなら間違いなくカメラを止めるな!だ。けれど頭の中を今でもぐるぐるしているのは、きみの鳥はうたえるだ。
見てもらえばわかるのだが、きみの鳥はうたえるは、殺人事件が起こるわけでも、登場人物の誰か絶望の淵から這い上がるわけでも、悲劇的な別れがあるわけでもない。主人公がちょっとだけ成長するだけだ。
その根底にある、どうにもならないゆるい絶望、無気力、退廃。何があったわけでもないけど、何となく悲しかったり、友人たちとすごく楽しく遊んでいるのに、ふと悲しかったり。そういう絶妙な、ささくれみたいな傷。
面白いか面白くないかで言うと、面白くないになってしまう。けれど決して致命的ではない小さな傷が、いつまでも治らないといった感覚の残る作品は、結構好きだ。

ラストシーンは、見ているときの気分でだいぶ印象が変わると思う。
ミニシアターで見ていたのだが、真ん中らへんで猫背で見ていた私と、斜め後ろのカップルと、最前でビール片手に見ていたおじさんとで解釈は全く違うものになるだろう。当たり前と言えばそうなのだが、その解釈には、各々の人生が色濃く出てくるだろう。

私の小説が、過去の傷を蒸し返したり、ささくれみたいに残ったりすればいいと思う。それは「面白かった!」の一言よりずっと重要な事だと思うし(もちろんそう言ってもらえるのは素直に嬉しい)、私が今までに傷ついてきた事への絆創膏にもなる。同じことで傷ついたことのある人間が、傷つくように書いているつもりだから。

策略、思惑、そして思わぬ偶然、運命というべきか・・・に翻弄される中で、登場人物がどう成長するか、果たして全く成長せずに傷ついて立ち直れなくなるか。そういうのを書いているのが、今は一番楽しいから、しばらくその方向で行くと思う。
けれど、高校時代に描いたネームを清書したものは、人が死ぬし、ささいなものだがトリックもある。ほぼ完成しているから、いずれどこかで発表すると思う。というか本にする用にデータが出来ている。
この一年ですらこんなに作風が変わったのだから、来年はもしかしたらファンタジーものとかを書いているかもしれない。今書けるものを、楽しんで書くことを、大切にしていきたい。

それと、この日記も当初と大分趣が変わった。原因は私の精神病の経過だろう。今は全く薬を飲まなくても平気だし、新しい職場は頑張らないとと思わなければ足が向かない、と言ったこともなく通えている。
私の周りの人たちの考え方も変わったし、もちろん私自身も変わった。長かったニート生活のせいで、元気な声は出なくなってしまったが、保身のために勝手に出てくる笑顔は健在だ。
本だって読めるし、電車にも乗れる。漠然とした将来像も描けるし、希死念慮もない。夜寝る前に、明日が来なければいいのにと思ってしまうのは変わらないが。

死にたさから出てくるような尖った文章や、病気から出てくる憐れんでくれと言わんばかりの文章はもう書けない。良いか悪いかはわからない。そういう文章の方がウケが良かったのは確かだ。

でもまぁ、これが今の自分です。私は今の自分の方が好きです。

無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。