水至って

水至って清ければ則ち魚なし

たまにドラマや映画などで見る男子高校生の部屋ってもっと物が多いよな、と自分の部屋を見回して思う。教科書やら制服やら、持たなければならないものは多いくせにそれ以外だと呆れるほど物がない。服や雑誌は多いけれど、趣味という趣味はゲームぐらいなものだ。
ベッドから部屋を見回してそう考えていたら、隣の部屋のドアが開く音がした。夕方六時過ぎ、いつもの時間だと白鷺は思う。鶫美はいつもこれぐらいの時間にどこかへ行き、僕の寝ている間に帰ってくる。バイトだと本人は言うけれど、どういうものかは教えてくれない。それにコンビニのほうは二四時で閉店するからどう考えてもおかしい。こんなことを気にする僕のほうがおかしいのだろうか?
窓から見える道路に、鶫美の姿が見える。一瞬迷って、やっぱり今日こそ追いかけようと決意した。
「友達に誘われたから遊びに行ってくる!夕飯いらない!」
「ちょっと、…まぁいいわ。行ってらっしゃい」
母が僕の行動に介入することは、鶫美に対して以外はほとんどない。止められる気配がしたので、白鷺はスニーカーをつっかけてそのまま家を出た。
尾行の経験なんてゼロに近い。どうにか鶫美に気づかれないようにマスクぐらいはしているが、小道を曲がるたびに見失うのではないかと不安で仕方がなかった。日が落ち始めたころ、少年たちは歓楽街の大通りへ出た。
もちろん、カラオケだったりレジャースポットを友人たちと利用したことはある。そして、角を曲がればどういう店が立ち並んでいるかぐらいも知っている。まだオレンジ色の残る空にネオンが点灯し始め、逢魔が時は少年には異質な空気に変わっていった。そして鶫美が大通りから横道へ曲がろうと方向を変えたとき、白鷺の真横でしゃらんと、鈴の音がした。
無視して鶫美を追うべきだった、と気づいた時には遅かった。昏い赤の建物に極彩色の垂れ幕がかかっていて、石燈籠の先には風神と雷神の像があった。
そして、彼はその奥に居た。
「焦っているようだね、少年」
着物の男は笑って白鷺に話しかけた。そして、鈴を持つ手と反対側の手をこちらへ伸ばした。横目で鶫美が曲がった角を見たが、彼はもういなかった。
「…分かってて泳がせたんだろう。鶫美の目的地はあそこではないよ」
「なぜ鶫美の名前を」
手を取らず、白鷺は男の目を睨みつける。にっこりと目を閉じて、彼は返す。
「僕が君を探していたからさ。おいで、海口白鷺さん」
名前を呼ばれた瞬間、背筋がぞっとした。逃げようにもおかしなことに足が動かない。周囲を見渡すと、先ほどまであれほど人があふれていた交差点や大通りに誰にもいない。明らかにおかしい。
「当たり、か。あっけない出会いだったね。ずっと君を探していたのに、君はいつでも誰かと一緒にいるんだもの、呼べないじゃないか」
「何者だ、お前」
「何者だろうねえ。鶫美はエンラって呼んでくれるけど」
長い銀髪を耳にかけ、彼は伸ばした手を下した。邪魔くさそうに袖を払い、そうしてまた口を開いた。
「君こそ、普段はそんな鋭い目なんてしないだろう。…ふふ、役得かな。さて、こちらには来ないのかい?知りたいことがあったんだろう、僕でも答えられるよ」
「答えるかどうかは別だろう。鶫美とはどういう関係だ」
「お友達。それ以上でもそれ以下でもない」
嘘ではなさそうだと白鷺は判断したが、この異様な状況と目の前の男をどうしたものかと混乱していた。そして着物の裾が一瞬、白く靄がかり消えたような気がした。
「どうしてそんなに鶫美に執着するんだい?」
「お前に言う義理はない」
「名前は呼んでくれないんだ、残念。それと勘づいているだろうけど、帰らせないよ。そこもだんだん、息苦しくなってきただろう」
あぁさっきから考えがまとまらないのは酸素が足りないせいか、と息をのんだ。喉奥に引っ掛かりを感じて、上手に息が吸えない。それでも動かない白鷺を見て、彼…エンラは笑った。
「もう引き返せないんだよ…君と同じだね、ふふ」
その笑顔を最後に、白鷺の意識は途絶えた。

目が覚めてまず見えたものは、金色の地蔵だった。部屋全体は薄暗かったが、壁一面を埋め尽くすほど小さな仏像が整列しており、灯となっているのは蓮華の花であることにも気づいた。そして、隣に座るエンラの姿も。
「だからおいでと言ったじゃないか。頑固だね、白鷺は」
「気安く呼ばないでもらえるか?友達になった覚えはないんだけど」
「おっと失礼。じゃあ友達になろうよ」
「嫌」
「君の生殺与奪の権利は僕にある」
白鷺は口を閉ざした。そして、倒れる前に気づいたある推論が頭をよぎった。
こいつ、妖怪じゃないか?と。
煙々羅という、妖怪ともおとぎ話ともいえるような存在。この世ならざるものだろうと、そうでもないと納得できないと白鷺は思う。
「それで、僕を誘拐して何がしたいんデスカ」
「君のことが知りたいんだよ」
「何で?」
「鶫美が教えてくれないから」
そりゃそうだと悪態をつきながら、当面こいつに付き合うしかないのだなと諦めた。ため息をついて、次の言葉を紡ぐ。
「調べればわかるんじゃないの」
「調べてもわからないことを知りたいんだよ、具体的に言うと君たち兄弟の関係」
「一番他人には言いたくないところなんだけど」
「友達だろう?」
「仮に友達だったとしても言いたくはない」
「君友達いるの?」
「お前よりはな」
「外面はいいから、って言ってたよ。鶫美が」
「あってるけどさ」
ストレートに言われると傷つくなというより、鶫美がそう言っていたことの方がきついと白鷺は思う。表情を曇らせた白鷺を見てエンラは口角を上げた。
「中学二年生の時の修学旅行」
「......やっぱり全部知ってるんじゃん」
「その前から問題はあったんじゃないのかい?」
「僕と鶫美が兄弟だった事とかな。...鶫美の様子が変だった時点で近づいちゃ駄目だったんだよ。兄弟以前に、αとΩとして」
「ほう、つまり君としては、発情期になってしまった鶫美に薬を持って近づいたと...そうしてヒートになった。そう言いたいんだね?」
「そうだよ」
今でもあの日を思い出す。糸がぷつんと切れたようにへたり込んだ鶫美、駆け寄って瞳を覗いた瞬間、隠していたものの片鱗が溢れた。いつだって最愛の兄弟。残る理性で止めようとする自分の指を噛んで、意識を失いかけた僕に鶫美は、誰にも見えないようにキスをした。起きるとホテルの一室で、先生には慰められた。どうして、悪いのは僕なのに。
「でも実際に広まった“真実”は、鶫美が君を誘惑し、親の手の届かないところで番になろうとしたということ。だから君は今も平穏に暮らしていて、鶫美は無頼なんだろう」
「あの時本当に噛めば良かった」
誰にも漏らしたことのない本音をポツリと呟いた。そうすればきっと、今よりはマシだっただろうと思う。
「君が思うより大人は甘くないよ」
エンラが苦々しく吐き捨てると、彼の羽織の裾に煙が集まり、その白が明けた先には紫色の長羽織が現れ、手には扇子、頭には宝飾品、そして何より目を引いたのはその背後にある後光としか言いようのない光だった。
「さて、白鷺の本音のお礼だ。これが本当の僕」
「神様みたいだな」
「わかってるんでしょう、僕の正体」
後光のようなものはふわふわと、エンラの体から離れると薄く消えていく。引きずっている長羽織の裾も、扇子の先だって白く靄のように消えていく。この姿を維持するのは、きっといまのエンラには難しいのだ。
「妖怪、煙々羅」
「流石だね」
そう言うとエンラは動きづらそうに白鷺に近寄って、その体を優しく包み込んだ。どんどん装飾品が煙に変わっていき、白鷺の視界は真っ白になった。けれど自分を抱く腕は優しくそこにあり続け、不快なような、安心するような不思議な感覚に陥った。そうじっとしている間に煙が晴れて、目の前には静かに微笑むエンラの姿があった。
「さてここで建設的な提案なのだけれど」
とエンラはいたずらっぽい笑みを一瞬で浮かべ、白鷺を抱いていた腕を解いた。
「今、鶫美の近くにαがいる。それもかなり長い間。このまま放っておくと本当に番になってしまうかもしれない。...どうしたい?」
「本音を言うと殺したいぐらい憎いけど、現実的なところでいうと引き離したいかな」
「よし、利害の一致。僕もそのα取られると困るんだよね」
「そいつの名前は」
「安桜菖蒲。僕から言わせるともうすぐおじさんってところ」
お前の目線がわからないんだよ、と白鷺は心の中で呟き、排除すべき敵の名前を改めて噛み締める。あさくら、あやめ。
「どういう関係なんだ」
「今は風俗店の店長とその下で働く店員さん。どうしてそうなったかは僕にもわからないんだ」
「やっぱり、鶫美は…」
「うん。うすうす気づいていたでしょうに」
改めて現実と向き合うとやっぱりショックだった。そして考えすぎか、目の前が白んで、思考がまとまらなくなってきた。またこの感覚、と白鷺は思う。
「...大丈夫?ふらついてるけど」
「あぁ...煙が回ったのか...」
お前のせいだろう、という間もなく白鷺はまた元のように倒れてしまった。視界の端に、本当に不思議そうに顔をのぞくエンラを捉えながら。

今度は白い天井だった。蛍光灯の生白い灯が部屋を照らしていて、窓の外もまだ昼だった。いや、もう昼と言うべきか。白鷺は時間の感覚がわからず混乱し、助けを呼ぶにも誰の名前を呼んだらいいのかわからなかった。だから、一番いて欲しい人の名前を呼んだ。
「......つぐみ?」
「残念、僕だよ」
ベッド脇のテーブルを挟んだ向かい側に、簡素な和服のエンラが座っていた。そうだよなぁと思いつつ、白鷺が質問をする前にエンラは口を開いた。
「昨日の夜、あのまま寝ちゃったから適当に連絡して友人宅に泊まっていることにしてある。今は10時ぐらいだ、学校が休みで良かったな」
どうやって、と聞くのもこいつにはムダだと白鷺は悟っていて、その訝しむ顔を見てエンラは楽しそうに目元を細めた。
「友人じゃダメなのかい?」
「お前と友達になんかなりたくないね」
「じゃあ、利害の一致って事でどう?ほら、敵の敵は味方じゃない」
「そいつの敵とも限らないだろ、お前」
「うん。敵はむしろ鶫美かな」
「...は?」
一瞬呆気にとられた白鷺だったが、すぐにピンときた。何か菖蒲を鶫美にとられるとまずい理由がある。ただ妖怪もどきの考える事だ。まったくもって読めない。
「深い理由はないよ。ただお気に入りのおもちゃを横取りされたくなくて、それに協力してくれそうな人を見つけただけだよ」
「...わかった。仲間としては認める」
そうしてにっこりと笑ったエンラは神のようですらあった。
「あとね、もう一つ大事なことがあって」
「嫌な予感がするんだけど」
「うん。あたり。僕のこの体を維持するのには人間の信仰か生気が必要なんだ。昔はこの寺にも皆よく通ってくれたんだけど、最近はめっきりで」
そういったエンラは手を出し、それをひらひらと振った。すると指先は煙が舞ってぐにゃぐにゃになり、手を止めて数秒のうちにまた元に戻った。
「今じゃこの様。だから君には、僕の餌になってほしいんだ」
「お前、毎回頼みごとが無茶すぎるんだよ。なんでそれで受け入れられると思った?」
「君を虜にできる秘策があるからね。ほら、嗅いでみて」
そう言って指先を白鷺の顔に近づけた瞬間、白鷺の目の色が変わった。間違いない、鶫美のフェロモンだ。
「…どういうつもりだ」
「ちょっとキスさせてくれるだけでいいんだよ。まぁ、その気になればその先も…ってとこ」
「最低。しかも多分これ、断れないんだろ」
「そりゃあね。また呼んじゃうよ」
「気味悪いからやめろ。…今は時間が進んでるのか」
「そう。逃げ出そうと思えば逃げ出せるよ。ここはただの寺務所」
あのとき、時間が止まっていると本能で理解していたことにエンラは内心驚いた。思ったより霊感が強いか、頭がいいか、その両方か。そして逃げ出す素振りのない白鷺の瞳をじっと見つめた。
「それと、君が僕の煙を吸ったときによくないことが起こったみたい。わかりやすく言うと、君と僕の間に縁ができたんだ。もっと簡潔に言うと、君はいつでも僕と会話できるし、どこに居たって呼び出せる」
「は…?」
「君は思ったより”こっち側”に近づけるらしい。本来こんなことはあり得ないんだけどねぇ。ほら、左腕を見てみて」
いわれるがままに左腕を見ると、紫色の紐のようなものがブレスレットのように巻き付いていた。生地は着物に似ている。これが印なんだろうか。
「僕に何の利があるって言うんだ…」
「僕にも利があんまりないんだよね。でも話したいときはこっちからも話しかけられるし」
こうやって、と白鷺の鼓膜に先ほどまでの会話とはまた違った形で声が届く。どうやってやるんだ、と心に念じると、それであってるよとまた声が返ってくる。顔を上げるとエンラの笑顔が見えた。よく笑うやつだ。
「……さっきの」
「うん?」
「一回ぐらいなら、キスも。…鶫美のフェロモンは使わなくていい」
「…ありがとう」
頬に添えられたエンラの手は思ったより暖かかった。顔を近づけて、一瞬迷っていたようにも見えたがエンラからキスをした。白鷺の口内から唾液を吸い尽くすようにエンラの舌は艶めかしく動き、二人は呼吸を忘れたようにキスをしていた。
そして唇が離れた瞬間、腕をつかんでベッドにエンラを押し倒したのは白鷺だった。こいつも驚くんだな、と思いながら、着物をはだけさせる。
「……本当に?」
「言ってたくせに、ビビってんの?」
そう挑発し、自分のシャツのボタンを外し、ベルトのバックルに手をかける。自嘲するように歪んだ口元から言葉が紡がれる。

「僕が今までどれだけ好きでもない恋人を抱いてきたか、教えてやる」


無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。