お前らはLocustの本当の良さに気づいていない
いや~ボカコレ2022秋、良かったですね……
今回は割と巡回できました。この人も参加してるんだ!みたいな懐かしい人だったり、他のジャンルで知っていた人を発見したりして良かったです。ルーキーの方はあんまり回れなかったので次はルーキーを重点的に見ようかな。
という前置きはさておき
聴いたか!?!?!??!?!?!??!?!?!??!
Locustを!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
俺はLITCHIが大好きだった
LITCHIというボカロPをご存じだろうか。
2019年のGrotesqueという曲を最後に投稿を止めてしまった人だ。
私はその最後の投稿の一つ前のSimulacreという曲でLITCHIに出会い、Grotesqueを投稿された直後に聴き、これからどんな曲が聴けるんだろう!と思っていた。
その後、投稿はなかった。
それから三年が経とうとしていた。
ある日YouTubeの通知を見ると、Yamajiという人がHyperlexiaという曲が投稿されたという通知が来ていた。この人をチャンネル登録した覚えはない。なんだ?と思いチャンネルに飛ぶと、LITCHIの曲に並んで、可不の曲が上がっていた。
?????????????????????????????
これ、LITCHI……!?
そう、私はYouTubeでLITCHIを知ったせいで、もともとやまじとして活動していたことを知らなかったのだ。
そして、Locustの良さはLITCHIを知らないと十分に伝わらないと思う。
なのでここからはLITCHIの曲の紹介に入る。
この記事内ではYouTubeに投稿してあるサンクチュアリ~GrotesqueをLITCHIの曲、Hyperlexia以降をYamajiの曲として紹介させていただく。
ちなみに筆者は音楽に詳しいわけではないので、使っている用語に間違いがあるかもしれない。雰囲気で読んでほしい。あまりに誤用だと思う部分があったらTwitterあたりで指摘してください。
あと全編通して敬称を略させていただくのでそこも許してください。
LITCHIの好きな楽曲を書きます
どれから紹介したらいいんだろうな。全部好きなんだよな。と思いつつもまずはこの曲しかないよな、と思う曲を貼ります。
サンクチュアリ
やまじがLITCHIに改名して初めて出した曲だ。
もう開始三秒で最高。やまじのギターはめちゃくちゃ良い音がする。後から気づいたが、私がニコニコ動画のボカランを漁り始めるきっかけになったNeruのアブストラクト・ナンセンスという曲があるのだが、その曲のリードギターもやまじだ。もう魂がやまじのギターのこと大好きなんだよな。
今思うとここの歌詞が、LITCHIという存在のすべてだったのかもしれない。やまじという存在からいったん目を逸らして、LITCHIというスタートを切り、やまじのことを許せたから、LITCHIを消したのではないか、とオタクは思う(オタクは深読みが大好きなので)。
天動説
次に紹介したいのは、三作目の天動説という曲だ。
初めに耳に入ってくるのはエグいドラム。そしてドエグいベース。この曲のベースはこんにちは谷田さん、今のキタニタツヤだ。そりゃ~良いよな。
でもベースだけが良いのではなくて、動き回るベースと調和するようにドラムもギターも暴れまくっている。その割にボーカルはこう来るだろうな、という予想のど真ん中を通り抜けていく素直なメロディだ。
個人的にはこの曲がLITCHIの曲の中では一番明るいと思う。少女如来の許し方も曲調は明るいほうだが、あれは割と歌詞に悲しみや諦めのような感情が見える。だが天動説の歌詞は、止まることを知らないアップテンポに乗せてひたすら明るい未来に向かっているような光を感じるのだ。
人生の終わりには死がある。ならば生きている間だけでも笑っていよう。そうして私は君に救われたから、今度は私が誰かを照らす番だ。この歌詞を見た時に私に浮かんだのはそういうイメージだった。
この歌はずっと未来を見ていて、過去のことを「偽物の思い出」「全部忘れて」とすら歌っているのだ。
なんか……泣けてきたな……良すぎて……。
楽園の遺伝子
この曲はマジで胸が苦しくなってしまうほど歌詞が一番好きですね……。
どこにも歌詞がないので私が個人的に眺めていた文字起こしのメモをそのまま貼らせていただきます。問題あったら怒ってください。とりあえず読んでくれ!!!!!!それから聴いても遅くない!!!!!!!!
「言葉さえ無くなってしまえば 僕が抱く願いなんて一つもない」、すごすぎる……この曲がカラオケに入ったらサビに入ってこの歌詞が出てきたらもう歌えなくなる自信がある。絶対に泣く。でも絶対歌うの楽しいだろうな。
聴いてもらうとわかるんですけど、「無くなってしまえば」の「無くなって」のところで一番力が入って、「一つもない」の「一つも」の部分は少し力が抜けるけど「ない」のところは力強く断定するように歌える。メロディと歌詞が恐ろしいほどに合っている。
これは音楽が全然わからない人間が言うことなので正しくないのかもしれないけれど、「言葉さえ」の「ば」、「無くなって」の「な」、「僕が」の「が」の三つの音は拍の最初のタイミングの音で、どれも少し長めに音がとられている。このタタッ|ターで区切られている緩急のつけ方が本心を吐露しようとしているときの少し言葉に詰まった苦しそうな言い方にも聴こえる。それに同じ歌詞なのにラスサビの転調後のほうが苦しそうに聴こえるのは、ミックスの都合でそう聴こえるのかもしれないが、微妙に文節の区切りでリンの声が転調前より少し早く終わっているようにも感じるのだ。
記事書きながらずっと聞いてたらめちゃくちゃ泣けてきちゃった……。
マジで楽園の遺伝子に関してはこれだけで記事にできちゃうぐらい言いたいことがたくさんあるんですけど、それまでロックでゴリゴリでボーカルを埋もれさせてしまうぐらいバッチバチの音をかき鳴らしていたLITCHIが、ボーカルを使ってこちらの感情を揺さぶりに来ている曲のように感じた。こんな言い方をすると安っぽく聞こえてしまうかもしれないけれど、聴ける限りのLITCHIの曲の中で一番エモい。
やまじのリンは力強くもガラスのような鋭さや儚さ、透明感を持った声のように思う。けれどLITCHIのリンは、真綿のように純白で、柔らかく、それでいてゆっくりとこちらの首を絞めてくるような苦しさを持っている。その調声が一番引き立っているのが楽園の遺伝子だと思う。
アルカイック・スマイル
この曲は一言でいうとめっちゃくちゃ中二病なんですけど私の中の中学生が大喜びしているので紹介させてください。あとイラストがいいので私のフォロワーは顔で釣れそう。入口なんかなんでもええので聴いてください。マジで。
これが入りの歌詞なんですけどもう、すごい中二心をくすぐられる単語が死ぬほどお出しされるんですよね。かっこよすぎる。
この曲もドラムが割と暴れている印象がある。それがまためちゃくちゃかっこよくて……。でもサビではそんなに暴れていなくて、でもちゃんと盛り上がっているのが音楽何もわからないなりに上手過ぎる!と思います。
この曲以降はレンがボーカルの曲をメインに紹介していくんですけど、LITCHIのレンはリンと同じように柔らかく、それでいて鋭さも兼ね備えている不思議な声をしている。山芋みたいな声(台無しの表現だけど私のボキャブラリーにはこれしかない)。これを覚えておいてください!ここ大事!
イミテーション・メサイア
何同じ曲二回貼っているんだ、と思われる方へ。間違っていません。この曲はレン版とタラチオ版とLITCHI本人歌唱版の三つがあって、特にレン版とタラチオ版は曲の解釈が180度変わってしまうぐらい全然違うので聞き比べてほしくて、両方貼りました。本人歌唱版はレン版と同じ曲の解釈をしているように感じたのであえて割愛させていただくが、透明感があって好きな声をしているので気になった方は聴いてみてほしい。
レン版は語りかけるような、素直にスッと入ってくる感じがする。高音の儚い発音も相まって、信じてほしいという切実さを孕んでいる半面、どうやってもこちらからは手の届かない聖なるもののような眩しい印象を受ける。
対してタラチオ版は、苦しみや叫び、痛み、怒りすら見える。これは人間にしかできない表現だろう。私はこの曲を長くレン版しか聴いていなかったので、タラチオ版を初めて聴いたときはこんなメッセージを持った曲だったのか……と驚いた。
ラスサビ前の「僕は救いたいんだ」から「感傷の忘れ方を」までの部分のどんどん感情が露わになっていく表現がもう、ものすごい。これは聴いてみてくれとしか言えないが「焦がしていく」の部分とか特にすごい。楽園の遺伝子とはまた違った感情へのアプローチを感じられる。
この曲は「君」という二人称が先に出てくる。だが、ラスサビでは「お前」という言葉が使われる。この「お前」の違和感に気づいたのはタラチオ版を聴いてからだった。レン版では「お前」に込められていたのは諦めのような印象を受けるし、流れるように歌っているのであまり気に留まらなかった。だがタラチオ版は「お前」という前に息継ぎが入るし、「お前を指した色だ」というフレーズがどこより力強く歌われているように感じる。
この「偽救世主」が、一番救いたいと願う相手は「君」だろう。では「お前」は何なのか。それはきっと、「僕」自身なのではないかと思った。
Simulacre
私はこんにちは谷田さんの曲が好きで、そこからイノウエマナの映像に出会った。この曲は動画の転載や二次使用が禁止されているぐらいMVを大切にされていて、その分何度も見に行ってしまうぐらい曲に映像が合っている。説明的なシーンもあるけれど、すべてを通して見ると一貫したメッセージ性はあまり伝わってこない気がする。イラスト、映像のすべてが何かの象徴であることはなんとなくわかるが、それが何を指しているのかが私にはわからない。私はアンチクライストを見た時と同じ気持ちになった。これは褒めている。
説明的すぎると、解釈の余地がなくなる。このMVは圧倒的な技術を持って、余白を表現しているように感じた。歌詞にも断片という印象を受けた。あまりにこちらに説明しようという気がなさすぎるのだ。誰かの思考を覗いて、感じたことすべてを無理やり言語化させたような、どうしてその言葉が出てくるのか、どうしてその文章が続くのかが全くわからない歌詞なのだ。
この部分がめちゃくちゃ良い。「抱えようか」の後のボーカルのエフェクトみたいなのが死ぬほどかっこいい。張りつめていた糸が切れてしまったような音がして、何がとはわからないがただ、ああ、壊れたのか、と思った。
全体的な音作りには安定したものを感じる。ベースやギターはあまり気を衒った動きはしていないように聴こえる。だがこの曲のレンには特に、光で作られた糸のように、まっすぐだが絡み合い、いつか何かがあれば切れてしまうのだろうなという危うさを感じる。だからきっと初めて聴いたときにレンの声にエフェクトが入った瞬間に、絶望のような感情を抱いてしまったのではないかと思う。
Grotesque
これが最後の曲だ。そしてこの曲には確かにYamajiが居る。
これまでの曲を聴いてくれた人ならこの歌詞の異質さがわかると思う。LITCHIの歌詞は文学的で、言葉選びが美しかった。だがこの曲は、包み隠さないLITCHIの本質がこちらに語り掛けている。LITCHIが持つ美しい語彙の中に、強い感情を持った攻撃的とさえ取れる刃物が見えているのだ。
この歌詞には後のYamajiの曲の源泉になっているような鋭さがある。だが曲調は確かにLITCHIのものだ。エモくて、オルタナで、カッコいいのだ。確かな技術のギターがいて、計算づくで暴れるドラムがいて、支えながら奥底を揺らすようなベースがいる。そして囁くような、あどけない少年の声をしたレンがいる。
こう文章にするために全曲を聞き返してみたが、SimulacreがLITCHIの結末で、GrotesqueはYamajiの存在を示唆しているようにも感じる。ここでもう一度、サンクチュアリの歌詞を思い出してほしい。と思ったが文字数カウンターを見たらあまりに書きすぎているし遡るのも大変だろうと思うので、もう一度引用する。
比べてみると、同じことを歌っているようにも見えないだろうか。
「嘘みたい 馬鹿みたい 無知で蒙昧」な「不格好な僕」を、「許すため歌っている」のは「ここじゃない 何処へ行きたい?現在じゃなければ何処でも」いいから何処かへ行きたいからではないか。そしてその行きついた先が、Yamajiという存在だったのではないか。
Yamajiとしての再出発
2019/08/19のGrotesque投稿からおよそ3年が経とうとしていた2022/02/14に、Yamajiは再出発を果たした。
もう再生してすぐに、LITCHIがいなくなってしまったのがわかる。映像は少しGrotesqueの面影があるようにも思うが、Yamajiとしての二曲目であるPoryapexからはそれも無くなる。
Hyperlexiaからの曲には叫ぶようなギターも、突き抜けるようなドラムもいない。ベースの構成の根底には同じものがあるのかもしれないが、パッと聴く印象はLITCHIの曲とは全く違う。使用しているのもVOCALOIDのリンやレンではなく、Cevio AIの可不だ。
歌詞に使われる語彙も明らかに変わった。一番顕著なのは僕、君、あなた、のような人称が、俺、お前、あんたに変わった所だろう。文学的だったのが口語的に変わって、それに伴って私たちが普段喋るようなラフな言葉が混ざるようになった。
初めてHyperlexiaを聴いたときにはかなり落ち込んだ。もうLITCHIは居ないのだと、本人の口からはっきりと聞かされたような気持になったのだ。
ここで補足しておくが、私はHyperlexiaが曲としてめちゃくちゃ好きだ。落ち着きながらも疾走感があるし、可不の調声も少し不安定だったり吐息が時々鋭くなってしまうような特徴を嫌な音にならないように生かしている。歌詞を割るリズムの構成も心地よくて、つい口ずさんでしまうキャッチーさも感じた。
あくまで私が落ち込んだのは、Hyperlexiaという曲が世に出て、アカウント名がYamajiに変わったことで、私の青春とも言っていいぐらいに聴きこんだLITCHIがもうこの世にいないという事実を突きつけられたからだ。
その後に続く、Poryapex、Ectoplasm、Automatismeは可不、ΣΔliceは#kznを使用しており、今後はCevio AIをメインで使用していくのだと思っていた。そのほうが、LITCHIとYamajiを切り分けて考えられるし、私の精神衛生上喜ばしいことだとも思った。あと個人的にIA_AIを買っていたので、Cevio AI使いが増えることも純粋に嬉しかった。
そんな時に事件は起こった。
Yamajiが、鏡音レンを使うと言い出したのだ。
えっ!?!?!??!?!?!??!?!?!??!?!?!?!??!
ものすごく、複雑だった。
私は正直調声のことはわからないし、LITCHIのレンに似たような調声のボカロPにも出会ったことがなかった。だから、またLITCHIの頃みたいなレンが聴けるのだと思うと、すごく嬉しかった。
だが、今のYamajiの音に、まっすぐすぎて時には人を傷つけてしまいかねないような歌詞に、あの頃のLITCHIの繊細で触れれば壊れて消えてしまうようなレンの声が合うのかと不安にも思った。
だからボカコレが始まった2022/10/08の0時に、私は真っ先にLocustを聴きに行った。
Locustの鏡音レン
めっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっちゃくちゃ良かった。
本当に良かった。
確かに音はYamajiのもので、歌詞も今のYamajiだ。そしてレンの声はLITCHIを思い出させるような声だった。
歌詞についても、ところどころ攻撃的ではあるものの、人間の内面に潜んでいる不安や不満、不安定さを前面に押し出しているような気がした。
言葉選びが少しTwitter的と言うか、現代的で、LITCHIの頃には選ばなかったような単語が出ている。それを滑らかに歌い上げるレンがとても良いのだ。そして、きっとこの歌詞に込められた思いとは裏腹に、レンの歌声は淡々と「お前らが」と繰り返す。それは純粋な少年の声にも聞こえるし、天の啓示のように頭に抵抗なく入ってくる感覚すらある。
そして、LITCHIの頃のレンだ!と思ったのが間違いだったことにも気づいた。Yamajiの音作りはLITCHIに比べてこもっているように感じる(多分これが空間系エフェクトと言うのだろうが、自信はない)。儚く、鋭く、まっすぐな光のようなLITCHIのレンとは違う。優しく、煙の様に掴みどころがなく、何も傷つけられないような感触をしながら、確かに針を持つ山芋のような声だった。確かにあの頃の声がするのに、聴きこめば聴くほど全然違うと言えるのだ。
もうボカコレも終わって、しばらくLocustに向き合っていたが、認めよう。
LITCHIは死んだ。
Yamajiは、LITCHIを超える。
ボカコレという場においての「Locust」
ここからはLocustという曲と、私が観測する限りのボカコレという場について話そうと思う。
ボカコレという企画は2020年の冬に始まった。
その時にはランキングに入らなかったが、いよわの1000年生きてるという曲が「あなたは死んでもあなたの作ったものは1000年生き続けるから、ものを作り上げることは尊いんだよ」というメッセージを込めていて、私はこの歌がボカコレのすべてだと思う。これは、全てのクリエイターへボカコレという場の素晴らしさを伝える歌だと思った。
そして2021年の春の、2回目のボカコレで2位を取った卯花ロクの自称、音楽愛好家という曲は「人気の曲ばっかり聴く癖にマニア気取りすんなよ」という皮肉が込められている。1000年生きてるとは逆に、こちらはリスナーにボカコレという場の本質を突き付けるための曲で、ランキングの上のほうだけ聴いて参加した気になるな、ディグれ!というメッセージだ。
そしてLocustに込められた思いは、自称、音楽愛好家に似ていると思った。
そもそもLocustという英単語は、バッタ・イナゴ、そして貪欲な人という意味を持つ。
この歌詞からは、貪欲な人という感じはしない。満たされていて、それでいて空っぽな、何を求めたらいいかすらわからない人間を表現しているように感じる。
たぶんこれを読んでいる人はたいていなんらかのオタクだろうから、イナゴという言葉に込められたもう一つの意味に心当たりがあるのではないだろうか。
一応解説をしておくと、イナゴは主に同人界隈で使われる用語だ。これといって決まった活動ジャンルがなく、その時々で流行しており活気のある作品へ食いつき、活動をして散々荒らしたのちにまた同じように流行を追いかけて別作品へ移行していく人間のことを、侮蔑の意を込めてイナゴや、175と呼ぶ。自分が好きかどうかではなく、その作品で活動をすることで得られる利益しか見ていない人間を指す言葉だ。
基本的に同人活動は、自分が好きな作品に対する解釈や理想を自由に表現することでその作品への愛を深める行為である。そういう真剣に作品に向き合っているオタクからすれば、流行でしか物の価値を判断できないイナゴは敵なのだ。
自称、音楽愛好家で描かれている人物像はまさにイナゴだ。嫌いだと思った歌を、周りが認めていくうちに自分もいいと思うようになり、「己の価値などいらない」と歌い、みんなが飽きれば自分も飽きる。そしてまた流行の歌を好きになるのだろう。
そしてLocustで描かれているものも、たぶんイナゴだ。だがそれは自称、音楽愛好家のような人間が見向きもしない、ランキングに入れないクリエイター側がイナゴに向かってディグれと叫んでいるような歌詞だと思う。
ここからはキモいオタクの考察になってしまうので[曲名 解釈]みたいなサジェストに鳥肌が立つ人は読み飛ばしてほしいのだが、私はLocustをクリエイターの怨嗟の歌だと思った。
一応いろいろ作品を生み出すという行為をしてきた人間なので、自分が発表した作品に何も反応がつかず、なんでこんないいもの作ったのに誰も見てくれないんだよ!と思ったこともある。けれど私は私の作品が好きだから、どんなに評価されなくても、たとえクソリプが来たとしても、自分がいいと思って世に出したものは自分が一番愛している。
だがこの歌の中の「俺」は、「AIとクソリプを推敲している」「お前らのせい」で、作品を生み出せなくなっているのではないだろうか。(あとたぶんクソリプ合戦をしてしまっている。)
だが、作品を完成させたときの「隅々へ行き渡る快楽」が忘れられず、たまに作品が評価されて伸びたときに「もう連れてかないでよ天国」と思うぐらいにいい思いをしてしまい、作品を生み出すことをやめられない自分たちのことを「終わらない俺達は災厄」と言っているのではないか、と私は思った。
だから伸びるために自分がイナゴのようになったり、そういう自分が嫌いになって、自分を見出してくれなかった「お前らのせいだ」と、イナゴどものせいだと思うのではないかと、私はそう解釈した。
そしてボカコレでイナゴというタイトルをつけた曲を発表するYamajiの度胸に、もう完敗だと思った。強すぎる。あまりに攻撃的だが、その意味に気づけばハッとさせられる。Yamajiの、本質を見抜いて刺してくる良さと悪さが同居していて、悔しいほどに好きなのだ。
オタクより、これからのYamajiへ
今の私には、LITCHIが大好きだったという事実と、Yamajiがそれを超えるぐらい好きになっていくだろうという予感がある。だからいろいろキモいことを書いてしまったけれど、純粋に応援している。
できれば健康に、ずっと音楽を作っていてほしいなと思うけれど、いつかぽっきり折れちゃったとしても、私はそれを責めたりなんかしない。無理だけはしないでほしい。死んでしまうような無理をするぐらいなら、素直に休め!と言う。多分そんなことはないと思うんだけど。
GaLのコンピも楽しみだし、もちろん新曲も楽しみにしている。先日ペンタブを買っていたし(偶然同じものを使っているので笑ってしまった)、イラストも楽しみだ。
ただ一つ言わせてほしい。
Amusebuche.EPとLiving IconのDL販売をしてくれませんか!?
切実にお願いします……。
以上、オタクでした。ここまで読んでいただきありがとうございます。だいたい10500文字あるみたいです。話が長くてごめんな。でも、ありがとうね。
無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。