原風景としての”彼”
かえりたい、と言うときに僕は何処を想像していただろうか。
アスファルトに薄く積もった雪が車に撥ね上げられる。ぱしゃあと遠ざかっていくビニール袋のような音を聴きながら、濡れたスラックスの裾をぱたぱたと払った。
さっきまで一緒にいた友人たちの、不自然なまでの熱気が急に冷めていくのを感じた。同時に、海が隣に居ない事の息苦しさもこみ上げてきて、あと少しの家がひどく遠い。はらはらと雪も降っている。かえりたい。どこへ?
実は本物の海に行ったことがない。海月も見たことがない。名前にするぐらいなのだから、両親も見せてくれて良いのにと思う。どこまでも薄情だ。
しかし、かえりたいと思うとき、そこは確かに海だった。自分を無かったことにしたいと、何もかもやめたいと思うほど波の音は近くなる。触れたことなど一度もないのに。
それらしい言葉を充てるなら、原風景なのだと思う。何処にもないのに、たしかに僕の中で生きる景色。彩度の低い海に雲がかかった白い空。滑らかな流木と集めたところで面白くない小さな貝が散らばった砂原。何もない所、それが原風景としての海。
ポケットから鍵を取り出してドアを開ける。重たいようで軽い金属のドアの、読めない動きによろめきながらやっとのことでホールに膝をつく。ひどく疲れた。フローリングは冷たかった。
実家のフローリングは無垢だったことを思い出す。いつもは思い出しもしない、子供の頃を思い出すのはなぜだろう。どんなに嫌いでも、そこに居るというだけで安心するということを思い知らされる。便がいいからここを離れるつもりはない。けれど時々、どうしても寂しくなることも確かだ。
外のLED電灯の明かりを頼りに、鞄の中からスマホを取り出す。十時を回っているから、海のバイトも終わっているだろう。トークルームを開いて、何文字か打って、継ぐ言葉を探すうちに、画面が消えた。何かを伝えたかったのに、何も言葉が出てこない。そのまま電気もつけずに手探りで寝間着に着替えて、毛布に包まる。
心から砂が落ちていく感覚。さらさらと音を立てて空洞が広がっていく。冷たい空気が厚い胴体を通り抜けるせいで、芯まで冷え切ってしまう。空洞を抱えるように、丸まって眠った。
夢すら見ない。世界にただ一人。暗闇の中で放り出されて、波の音を聞いた。それは心臓の鼓動にも似ていて、耳の中がざわつくのがどうにも不愉快だった。たすけて、と言いたくて、自分のせいで誰かを困らせるのが嫌で…それが思い浮かべている彼ならなおさら嫌で、口から出そうになるその言葉を呑み込む。吐きそうだ。
眠ったり起きたりを繰り返しながら、カーテンの向こうが白んでいくのを待った。海の残り香に気付かないよう気を付けて、雪の降る音に耳を澄ます。
いつかすべてに別れが来る。引き波のようにドラマティックかもしれないし、雪解けのように静かかもしれない。変わらないのはそれが、起こるべきものということだろう。
明日も変わらない一日に決まっている。しかし歯車が少しずつずれているのは感じている。明確に歯車がかみ合わなくなるその日におびえながら、諦めながら、明日を生きる。
きっといつか、海の居たこの部屋に帰りたくなる日が来るのだろう。