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1年前の、今日と明日
1年前の11月16日の今頃、私はどの駅のホームにいてどのホットココアを飲んでどの歌を聴いて誰を想っていたか、まだ、手繰り寄せるようにではあるけれど、思い出すことができたことにほっとしている。ほっとしていることに、呆れるような。
永遠にぼくのためだけに生きてくれないか?
わがままでマイペースな春に付き合いきれるのは、今のところ僕しかいない。今のところ。だけどやっぱりいつか、春は今に人に囲まれた夢
なにもかも、杞憂で終わってしまえばいい
ドーナツをフォークで食べるような女性にはなりたくないと、思っていた時期があったはずだった。
最近は、「君たちはどう生きるか」や「なぞの転校生」、「それは誠」など秋並みに映像鑑賞と読書が捗っている。(正確に記録するとなると、もう一つ、心を揺さぶられまくった本があるのだけど、それは私の中にだけとどめておきたいので割愛する。)
家族が3人そろって映画館で映画を見るというのは、きっと4年か5年ぶりくらい
手紙「きみのいない世界の、意味」
親愛なる、きみへ。
この間、きみと会ってから、なんだか、楽しいです。なにもかも。身体が軽い気がする。家での息苦しさとか、やっぱり人と付き合うことに向いてないな、とか、そういう気持ちが全てなくなったわけではないけれど、それでも、今までくだらなかった生活でも、続けてきてよかった、と思えている。
大好きなスピッツも、他の歌も、なんだか違う曲のように聴こえる。私はもう、もしかしたら、二度と、十一月十七日
こんな気持ちになるくらいならいっそ出会わなければよかった、とか、それだけはどうしても、
アイドルのファンというものは厄介だと、アイドルのファンを十数年やってきて思っている。
推しを、もっといろんな人に見てほしくて布教したりするくせに、いざ、外野からなんやかんや指を指されたり同情されたりすると、「君たちにいったい何がわかるのだ」と耳をふさぎたがる。ずっと一緒に歩んできた同志、のような顔をしているけれど、私だって、推しのことは実際何も知らない、のかもしれない。
生きているものでも幻でも
ありふれた絶望、に対する410円の救い
未露光のフィルムのために2時間待ち、750円を払った。
750円を払ったことに対しては何の不満もないのだが、2時間待ったことに対する不満――といえば「待たせやがってこの野郎」とお店の人に怒っているように読めそうなのだけどそっちではなく、2時間を有意義に過ごせなかった自分に対する苛立ちと2時間家に帰ることが遅くなった苛立ちであって、特定の誰かに対する怒りではない。
最近、私が絶望したことといえば、
拝啓、最低なおまえ の、おまえとはどっちなのだろう、と考え続ける日々
ムーミンの小説で好きなシーンがあって、どのシリーズなのかは忘れてしまったのだけど(でもきっと最初の方)。ムーミントロールが、ムーミンママに、「いつになるかわからないけれど、必ず帰ってくるからね」といったニュアンスのことを言うシーンがある。ニュアンス、といったけどほぼほぼ合っていると思う。何が、とは上手く言えないけれど、いいな、と思うのだ。そのいいな、には、「私にも、そうやって、無条件で帰りを信じ、
もっとみるもう何もしたくないな。あんなにも心を揺さぶり続けた過去も、なにもかもが、今はもうどうでもよくて、きっとどこかであの子に会えたとしても、延長線上のように「久しぶり」と言えてしまうのだろう。結局、私に残ったのは、あの街に対するあこがれと、どうしようもなく心地のいい孤独だけだった。