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いぬいとみこ『山んばと空とぶ白い馬』論考:エコクリティシズムと多層性(そしてキリノミナコの消失)

Ⓒ1976 福音館書店

① 序論:エコクリティシズムと「発酵」

いぬいとみこ『山んばと空とぶ白い馬』(1974、福音館書店)は、1966〜8年の黒姫山(長野県上水内群信濃町柏原)を主な舞台とした児童文学で、黒姫山のふもとに別荘小屋を構えた東京在住の作家のたまごキリノミナコ(作中呼称:キリノさん)が厳しくも豊かな自然での暮らしを体験しながら次第に空とぶ白い馬や山んばなどのファンタジックな存在と交流を深めていくストーリーとなっている。本作には実際に黒姫山の山小屋に最低月1回は通いながら作品を執筆した作者自身の経験が色濃く反映されており、主人公キリノさんが持つ作者の分身としての側面は無視できないほど大きい。
 よって、キリノさんが作中何度も表明する「自然への共感」および「自然を破壊する人類文明への危機感」はそのまま作者が伝えたいメッセージと見て間違いない。実際、『現代日本児童文学作家事典・保存版』にて長崎源之助は本作(と『くらやみの谷の小人たち』)には「山林開発という人間どもの自然を恐れない横暴にはげしい義憤がうかがえる」(p.24)と記しているが、これは多くの読者が抱く感想を代表したものと言えるだろう。このような人間中心主義を告発し自然環境との関係の再構築を試みる文学は「エコクリティシズム」の枠で語られる機会が多い。確かにエコクリティシズムは本作を読み解くためのキーワードにできそうである。
 また、長崎は続けて興味深いことを述べている:「[前述のように]書くと、いかにも告発文学のような印象を受けるかもしれないが、決してそんなことはなく、抑制のきいた叙情性のある文章でファンタジーとして発酵させている」。この文からは長崎が本作をエコクリティシズムの観点だけでは価値が計れないファンタジーとして評価していることが窺えるが、「発酵」という単語を使っている点が面白い。
 本論の目的は、『山んばと空とぶ白い馬』の大きな魅力であるエコクリティシズム的側面と、「発酵」について読解を試みることである。次章では、いぬいとみこの小川未明評と宮沢賢治評をそれぞれ確認しながら、本作のエコクリティシズムの在り方を規定してみたい。

② いぬいとみこ小論:小川未明と宮沢賢治

2-1)いぬいとみこと小川未明
石井桃子ら6名の児童文学関係者により書かれた『子どもと文学』(1960、中央公論社)において、いぬいは小川未明に言及する章を担当し、その中でかなりはっきりと児童文学作家としての小川を批判している。いぬいは小川作品の混沌としたストーリーや都合の良い人物造形を「読みのふかさにささえられなくてはほとんど成立しない」(福音館書店版、p.9)、「内容のまずしさと、表現のかたさ」(p.10)ととらえ、「子ども不在の文学」(p.19)という「わき道」(p.12)へと児童文学を導いてしまった原因を子どもの実態を無視した小川の「童心」信仰だと指摘している。この章が後世の日本児童文学研究に与えた影響は大きく、『戦後児童文学研究所案内』(1981、日本図書館協会)においても「今でもよく読まれている」「[いぬいの章も含め『子どもと文学』は]その後の児童文学論争にはよく引き合いに出されている」と記載されている(p.53)。
 さて、いぬいの小川批判は確かに的確に日本の児童文学が抱える問題点を突いたかもしれないが、『山んばと空とぶ白い馬』を好意的に読解するにあたっては、皮肉なことに彼女の論自体が障壁となりかねない。いぬいは論の終盤で「幼年の世界」としてその実「大人の感情」が提示されているに過ぎない小川作品とその批評の一例を手厳しく批判し、「作家が生きた子どもをはなれた『童心』の中に、自分も外の世界までも包含させてしまうことの恐ろしさ」(p.31)と纏めている。しかし、前述のように『山んばと空とぶ白い馬』は作者自身が黒姫山に山小屋を建てた1966~8年の経験を舞台や時期を変えずに反映させた私小説の側面すらある作品にもかかわらず、主人公の年齢を42歳(当時の作者の実年齢)から27~8歳に変更している。意地悪く解釈すれば、作者が「青年の世界」としてその実「壮年の感情」を提示している本作には、「既に確定的となった壮年の世界観を説得力を以って提示するために、わざと若者が揺れ動きながら選び取っていくように見せかけている」と批判が来てもおかしくはない。
 ただし、そのような矛盾もはらんではいるものの、「小川未明」にていぬいが繰り返した「対象不在の他者解釈」への警鐘は『山んばと空とぶ白い馬』でも繰り返されており、本作を読み解く一つのヒントとなっている。その一例を宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」と比較する形で検証したい。

2-2)いぬいとみこと宮沢賢治
いぬいとみこは数々の場で宮沢賢治の影響を明言している。彼女は神宮輝夫のインタビューの中で童話を書こうと思ったきっかけは「宮沢賢治です」と明言している(神宮輝夫『現代児童文学作家対談 6』1990、偕成社、p.23)。更に、『山んばと空とぶ白い馬』について、「宮沢賢治のような土地、黒姫とめぐりあって、はじめて私が土地の霊によって書かせてもらったファンタジー」であり、本作によって「やっと宮沢賢治の場所でもない、いぬいとみこの場所が見つかった」と語っている(pp.54-5)。つまり、いぬいは宮沢賢治を意識しながら『山んばと空とぶ白い馬』を書きあげ、宮沢賢治との適切な距離を測れるようになった、ということであろう。
 実際、『山んばと空とぶ白い馬』の第11章「木のこえ鳥のこえ」は宮沢「鹿踊りのはじまり」と内容が酷似している。これより両者を比較していきたい。

 「鹿踊りのはじまり」はざあざあ吹いていた風がわたくしに語った物語として綴られている。内容は、嘉十という男が栃の団子を鹿のために残したことをきっかけに鹿の言葉が分かるようになり、鹿たちが自身の手拭を弄る様子や歌や踊りをこっそり観察していたが、最後は「まったくじぶんと鹿とのちがいを忘れて」隠れ場所から飛び出したところ、鹿たちははやてに吹かれた木の葉のように逃げ出してしまった、というものである。
 ここで描かれているのは「自然の世界に交りたくても交れない人間の姿」である。これは、宮沢の「本統の百姓」への同化願望が反映されていると見ることもできるが、いずれにせよ人間の世界と自然の世界を交わらざる対存在として設定していることは間違いないだろう。

 では、いぬいの「木のこえ鳥のこえ」はこの二つの世界の交差をどのように描いているだろうか。キリノさんは偶然山んばより預かった手ぬぐいに木のこえを人語に変換する機能が、もらいうけたイイズナの毛皮には鳥のこえを人語に変換する機能が備わっていることを発見する。この時点でのキリノさんはモモッカ、白い馬、山んばといった自然の者たちとある程度深くまで交流が進み、いわば人間の世界と自然の世界の狭間に立っている時期と言える。この章はそんなキリノさんに木や鳥たちが拒絶の姿勢を示すことで「キリノさんはまだ自然の世界に交れてはいない」ことを描写しており、「言語の変換」「手ぬぐい」という要素もあいまって「鹿踊りのはじまり」を強く連想させる。
 ただし、「木のこえ鳥のこえ」では「鹿踊りのはじまり」にて見逃されていた「翻訳の恣意性」について言及されている。木や鳥からの批判に傷ついたキリノさんは、手ぬぐいを本来の持ち主トラマツさんに返還する際、「あなた平気なんですか? これで、木のことばをきいても……」と尋ね、「山んばのまじないのきいた品物を身につけてきくと、それを身につけたもののこころがこちょうされてね」(pp.344-5)と回答される。これは、発話者の意志が受取者の解釈を経由する事実を示唆した発言であり、同時にキリノさんが良かれと思って実行した行為(例:カケスたちに肉のあぶらみを与える)も受取者(例:カケスたち)に解釈されるという当たり前の事実を改めて想起させる。「鹿踊りのはじまり」では嘉十による栃の団子の譲渡が「良き行為」として問い直しもなく処理されるが、『山んばと空とぶ白い馬』ではそのような暗黙の人間中心主義は見逃されない。「対象不在の他者解釈」を批判するいぬいのスタンスがここで「人間中心主義の問い直し」という作風へと結実しているのである。
 いぬいは宮沢賢治を意識しつつ宮沢賢治とは異なる「わたしの場所」としての文学を『山んばと空とぶ白い馬』に見出した。そしてそれは、宮沢が見逃した「対象不在の他者解釈」に批判的な目を向け、「人間中心主義の問い直し」という作風に繋げることで成し遂げられたのではないだろうか。

③ 多層化する二項対立

前章にて確認したのは『山んばと空とぶ白い馬』におけるエコクリティシズムの考え方についてである。本章では、エコクリティシズムの前提である「自然/人間」という二項対立が、『山んばと空とぶ白い馬』では多層性を持って表現されている点に言及する。
 本作には「自然」側にも「人間」側にも様々に異なった立場を体現するキャラクターが登場し、二項対立が多層化している。これは、言い換えると自然と人間の関係性についての多様なシミュレーションが作中に見られる、ということである。いぬいはあえてキャラクターの属する二つの領域を一枚岩に描くことなく、自然と人間の関係性を多角的に考察したと考えられる。この「多層性」こそが本作に深みを与える「発酵」の正体ではないだろうか。
 本章では、『山んばと空とぶ白い馬』における「発酵」の原因を「二項対立の多層性」と仮定し、いくつかのキャラクターの立ち位置や役割について纏めていきたい。

3-1)「山んば」「空とぶ白い馬」
どちらも「自然」側に属するキャラクターであるが決して一枚岩ではない。まず、山んばは「山の神さまのつかい女」「山のものと田のみのりのまもり手」である。田のみのりという人間の営みすらも見守っていることを考えると、彼女は「自然」というより「土地」を司る存在であり、自らもイイズナの毛皮のききみみずきんを宝物として保持していたり、生きるために命をかけて動物と戦う人間には好意的な様子すら見せたり、必ずしも「命を奪う人間」そのものを否定しているわけではない。
 他方、白い馬は「雪と水のつかい」であり、長くとどまると土地に春が訪れないため、山んばのような土地を象徴する存在には成り得ず、「雪や水」らしく流動的な生き方を選択せざるを得ない。キリノさんやアキといった東京出身の余所者には姿が見えるが作中登場した地元民には姿が認識できない理由は、「雪や水(水源)」は東京民にとっては珍しいが地元民にとっては当たり前すぎて意識から外れるからではないかと思われる。
 二人は基本的には互いが互いの身を案じる関係であるが、「地元の信仰」を大切にする土地神の山んばと「今の信仰」を大切にする流動神の白い馬は、とりわけ道陸神おくりの際、スタンスの違いが露になる。信仰の形が変わってしまった道陸神おくりを白い馬は積極的に手伝い、山んばはそのことを非難している。これは、自然と人間が伝統的な関係性に帰着すべきか、現状を踏まえて最適化を図るかのせめぎ合いであり、「年老いた」山んばと「若々しい」白い馬による世代間闘争の側面もある。

3-2)「モモッカ」「ヒキガエル」「キツツキ」
同じく「自然」側に属するキャラクターであるが、山んばや白い馬よりは「手前」にいる存在として設定されている。モモッカはキリノさんたちを白い馬や山んばへと導く水先案内人である。同時にキリノさんに野ネズミを殺させたことを思い起こさせるなど、人間の加害性を告発する役割も担っていたはずだが、物語が進むにつれその役割は山んばや白い馬に引き継がれ、最終的に単なるちょっと不思議な隣人のポジションに落ち着いてしまう。モモッカは作中描写を踏まえればモモンガのような姿をしているが、地元民には「モモッカ=鳥」と誤って伝承されており、ここにも「対象不在の他者解釈」の一例を見ることができる。
 ヒキガエルは白い馬たち「大自然」とは異なり人間にとって「身近な自然」を体現するキャラクターであり、交通事故によってあっさり命を落とし「身近な自然こそ最も無力な自然」であることを読者に印象づける。生前はモモッカの添え物のような扱いをされており亡くなってから急速に存在感が増したが、これは「身近な自然こそ失うと痛手である」ことを伝えるエコクリティシズム的表現であると思われる。
 キツツキの中でもピオとギーという名前が与えられたアオゲラ夫婦には作中何度もフォーカスが当たる。本作はキリノさんの山小屋に彼らが住み着いたことから自然と人間の交流が始まる。キリノさんは当初この交流を友好的なものと捉えていたが、実は住みやすい木々が人間により伐採されたためやむを得ず山小屋を住居としていた事情が発覚する。また、ピオが小屋に空けた穴がモモッカ侵入の経路となっている。つまり、キツツキはキリノさんの「安易な友好」が「真の他者理解」に発展するきっかけと、彼女が「自然の世界の深淵」へと繋がるきっかけを同時に与えてくれる存在として機能している。また、おじいさんキツツキとはモモッカを巻き込んで世代間闘争の様相を見せる。

3-3)「アキ」「ヨシマツ」
アキとヨシマツはどちらも「人間」サイドのキャラクターだが、「自然に共感を示す外部出身の子ども」「自然を破壊する地元の大人」と対照的に設定されている。アキはいぬいが主人公として好みそうな「明朗で賢い子ども」であり、実際に本作の主人公を担っていてもおかしくはない存在だが、なぜ主人公ではないのだろうか。その答えは子どもゆえの「危うさ」にあると考えられる。
 アキは山んばたちとの交流を経た第16章「ヒキガエルの星ととおい花火」にて、キリノさんの隣人清水さんがクロアリに巣をタンスごと燃やす場面に遭遇し「なんで、やき殺したりしたんだよう」「あんなやつ、ひどい鬼ばばあだ」と怒りを露にし、「地めんにしゃがんで、くるしそうにもどしはじめ」るほど激烈な反応を見せる(pp.449-51)。一方同じ場面に居合わせたキリノさんはこの件が「大量殺りく」であることを承知しながらも「アキもキリノさんじしんも、アリたちの平和をみだしている侵入者のひとり」であることを再認識しており、清水さんの加害を責めるだけのアキとは異なる自戒の姿勢を見せている(p.450)。いぬいは本作を「人間の加害性を一方の立場から糾弾するだけ」の作品にすることを避けるため、二項対立の間でバランスを取ることができない子どもを主人公にしなかったのではないだろうか。アキは山んばにとっては単なるお客さまであり、モモッカに責められることはないが白い馬に頼られることもない。良くも悪くも作中時点ではまだ物語に影響を与える存在として扱われていない。
 「ヒキガエルの星ととおい花火」にてアキの危うさが露呈した一方、黒姫山を積極的に切り拓き、自然を破壊するヨシマツさんには意外な善性が付与されることとなる。キリノさんは黒姫山の生活の中で初めての断水を経験するが、そこに水を持ってかけつけてくれたのがヨシマツさんであった。彼女はヨシマツさんを「人相のわるい、陰けんなようすの年よりと、勝手に思いこんでい」たことを自覚し、人物評価を改める(p.455)。また、断水は白い馬が人間対策に行った水源の封印によるものだと察する。構図としては、ずっと味方だった白い馬による被害を初めて被り、また非難すべき敵だったヨシマツさんに救済されたということになるが、このエピソードはアキが人間の加害性に極めて激しい反発を見せた直後に配置されている。つまり、「善なる」アキの危うさと「悪なる」ヨシマツさんの善性が順番に示され、「自然=善/人間=悪」という単純な二項対立が覆されるのである。

 以上のように、登場キャラクターは「自然(大自然/身近な自然)」「人間」のどちらかに属しながらも、多層化されたカテゴリーの中で独自の位置に配置される。そして、それぞれの置かれた状況や環境を細かく検証することで、「前なる自然/悪なる人間」の単純構造が解体され、自然と人間の関係性についての再考を読者に促す。この多層性こそが本作をエコクリティシズムの単純構造の一歩先を見据えた「発酵」した物語足らしめたのだと考えられる。
 次章では、話題を少し変えていぬいとみこ作品におけるキリノミナコの位置づけについて論じたい。

④ キリノミナコの消失

前述のように、キリノミナコは作者の分身とも言えるキャラクターではあるものの、年齢を青年期に設定することで「壮年の思想と経験値」を「若者の目線と将来性」にカモフラージュすることに成功している。これを作品に説得力を持たせるための戦略として非難することもできるが、キリノさんが作中「山んば見習い」についての童話を書こうと苦心し、結局断念することを踏まえると、全く別の位置づけが可能となる。
 「山んば見習い」はひとりのわかいむすめが「都会の生活をすてて、山おくにすみ、「山んば」になるまでの修行をするありさまを書いた」「気のいいモグラや、ふたごのリス兄弟が登場」する物語と説明されている(pp.250-1)。キリノさんは自然との関りが深くなるにつれ作品との付き合い方を変化させている。初めて空を飛んだ際はその楽しさを作品に反映したい願望に駆られ、銃に撃たれた山んばや傷ついた動物たちを目撃した際は無責任な内容を反省し「これは完全な、失敗作だもの……」と原稿を封印する(p.251)。封印された原稿はキリノさんが仕事を辞め東京から本格的に黒姫山へ住を移したタイミングで燃やされてしまう。「山んば見習い」はまだ自然への理解が浅かったキリノさんが空想していた物語であり、「対象不在の他者解釈」そのものと捉えることができる。長い間大切に温めてきた「山んば見習い」を完全に捨て去ることで、キリノさんは「自然の世界」に受け入れられる準備がようやく整ったのであろう。その証左として、直後キリノさんは山んばのおくりものである泉を発見している。
 キリノさんが「山んば見習い」を燃やした際発生した煙は「融和を象徴する煙」であり、清水さんがクロアリを燃やした際発生した「分断を象徴する煙」と対比される。そのため、原稿が気持ち良く燃えるシーンで「清水さんのたき火のけむりは、もうみえません」(p.453)と清水さんの煙がわざわざ言及されている。「融和を象徴する煙」のイメージは道陸神おくりから始まり、山んば見習い原稿へと引き継がれているが、個人的にはラストシーンの花火も変則的な「融和の煙」ではないかと考えている。

 さて、キリノさんは作中「対象不在の他者解釈」を捨て去り、「人間中心主義」を脱する一本道を歩んだように見える。「山んば見習い」の放棄はその表れだというのが前述の意見である。しかし、現実のいぬいとみこは1982年に『山んば見習いの娘』という児童文学を福音館書店から出版している。内容は「ひとりのむすめが山おくにすみ、「山んば」になる修行をするありさまを書いた」「気のいいモグラが登場」する物語であり、キリノさんが構想していた「山んば見習い」にかなり近い。『山んばと空とぶ白い馬』にて否定した「山んば見習い」を後年の作者が復活させた事実は、『山んばと空とぶ白い馬』のキリノさんがいぬいにとって完成された人物像ではなくあくまで「自然と共存する人間」を考察する際のシミュレーションの一つであった可能性を浮き彫りにする。
 いぬいは「対象不在の他者解釈」と「人間中心主義」を否定する一本道も、それらを信奉する一本道と同様「危うい」ものと見なしたのであろうか。いずれにせよ、いぬい作品にキリノミナコは二度と描かれることはなく、代わりに山んば見習いが日の目を見ることとなった。いぬいとみこ作品におけるキリノミナコの消失と山んば見習いの復権は本格的に研究すべきテーマではないかと感じる。

⑤ まとめ:エコクリティシズムと多層性

いぬいとみこは『山んばと空とぶ白い馬』にて自然を破壊する人間に厳しい警鐘を鳴らしている。それは、彼女の小川未明批判にも通じる「対象不在の他者解釈」への嫌悪を、宮沢賢治が「鹿踊りのはじまり」にて見逃した「人間中心主義」への批判という形に結実させたものである。
 また、いぬいは本作にてキャラクター同士の立ち位置や関係性を細かく調整し、「自然/人間」の二項対立に多層性を持たせている。この点が、過剰に単純化されたエコクリティシズム作品とは一線を画す児童文学としての「発酵」を感じさせるが、にもかかわらず本作の主人公キリノミナコが作中否定された山んば見習いにその後取って代わられてしまった理由については、今後議論されるべきである。

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