私という生き物の正体
私は、できそこないだ。
私は、"人"の形を取り繕っているだけの、ぶよぶよに溶けた何かだ。
4年前に書いた記事にも出てきた、こいつだ。
思春期の頃は自分のことを「欠陥人間」と呼んでいた。
あの子が持っているこれを、その子が持っているそれを、私は何も持っていない。取り柄のない。可愛げもない。そんな私のことを誰が好いてくれるんだろう。そう思ったから卑屈になることだけは避けた。卑屈になりそうな私を注意してくれる人がいた。好きなものには夢中になった。夢中になった私を褒めてくれる人がいた。だから私は友達ができた。
だから私は「みんなが大好き。みんなの中にいる私だけが大嫌い。」と、ずっと強く思っていた。
社会に出て、おそらく人並みにはブラックな環境で、人並みには我武者羅に働いた。
やりがいと感動があった。目の前の子どもたちのためには純粋になれた。
そんなキラキラした青春の裏で、欠陥人間は溶解していた。
汚いものを見て汚い感情を迸らせる時。
綺麗な言葉にもできない愛でもない何かを呑みこむ時。
起き上がれない焦燥感と自己嫌悪から当然のように悪夢を見て、そして、ぱちっと意識が戻った時。
誰にも見せることのできない、"人"の形を保てなくなった私が、どろどろにへばりついて溶けている。
こいつは"人"じゃない。普段はそうありたいから"人"の形をどうにか保っているだけの、"人"の形をした薄膜を保つことに疲れてしまった何かだ。
しかし、ここまで来て私は私をようやく受け入れることができた。
結局、自分は自分が可愛い。
私は私を生きるしかない。死にたくないのならそこにあるのは生だ。
それならいっそ開き直って、私という人間を愛してやるしかないじゃないか。
この記事を書いたことは、そう思える大きな転換点となった。
その結果、私はできそこないの自分をほんの少しだけ晒すことになった。
ぐちゃぐちゃな私を支えてくれる人がいた。ぐちゃぐちゃのままで生きさせてくれた。実はそんな4年間だった。
今、私はもう一度"人"の形を被った私を、"私"だと認識したい。
そろそろ"人"として生きていきたい。
ふと、そう思った。
そうなっても、私は私を愛したままでいられるのだろうか。
できそこないの私を押しこめて押し込めて、今度はもっと見ていられない姿になってから気付きやしないだろうか。
私は、私の全てを愛してあげられるのだろうか。
でも、そう思い立ったが吉日。
もう少し背筋を伸ばして、全てを愛してやろうじゃないか。