結局、自分を好きになるしかない

 自分が正しいと思うことが周囲の人にとっても正しいことなのか、常に小さな不安と恐怖が付き纏っている。

 ただ、ふと裏返してみれば、私の正誤判断はただ自分にのみ委ねられているのではないだろうかと気付いた。もちろん、「誰かがそれを良いと言った、悪いと言った」ということを無視しているわけではない。しかしそれは一要素であり、それを吸収した上で、私は自分の経験とデータと感覚で目に見えるもののグラデーションを判断している。
 その判断を下した後で、自分の意見として他人とぶつかってしまうことが怖い。偉そうな判断をくだしておいて、その価値を肯定してもらえないと結構悲しくなってしまう。それはそうかもしれない。どちらかといえば自己肯定感は低いくせに自尊心が高く、山月記の李徴にどきっとしてしまったタイプの人間だ。結局、他人からの承認を欲している。

 他人を真っ向から否定するよりも、自分をなんとなく否定してしまうことのほうが簡単だ。「この社会には自分のほうが異端なのだ」と拗ねていた方が気楽だ。それでも一度くだした自分の判断の正しさを正しくないとはどうしても言えなくて、内心で相手を少しだけ嫌いになる。口には出せない。
 ただ、どうやら顔には出ているらしい。社会人になってから何度か指摘されたことがあるから、こう言うのもなんだけれど結構素直なんだと思う。子どもっぽいかもしれないけれど、完全に隠れてしまうよりも、言えないのなら顔に出てくれたほうがまだマシだ。そう思うことすら子どもっぽいのかもしれない。

 要は一見そうは見えなくてもとんでもなく我が強いのである、私という人間は。少しでも付き合いが長くなった人には、それがなんとなく伝わっていたらむしろ嬉しいなとも思う。
 そういう自分は嫌いではない。社会や他人に自分をかき消されそうになったり、自身を捻じ曲げられそうになったりすると、胸の内に意外とすさまじい勢いで怒りが生じる。しかも、このタイプの怒りは深く根を張る。何年も何年も、その通り「根に持つ」怒りである。別に表には出さないし、それによって嫌いになった人なんて今までの人生で2,3人しかいないけれど。

 我ながら面倒くさい人間だと思うし、この性質に対しては嫌いだった年月の方が長い。「そう思うなら言えば良いのに。言うことで自分や相手が傷つくのを恐れたり、打ち負かされることが怖いなら、そんな自信なら、最初から思わなければ良いのに」と自分自身をずっと叱りつけていた。
 ただ、自分をどれだけ嫌いになっても、結局自分は自分である。これだけ変わらない性質ならば、きちんと愛してあげた方が早い。愛して、理解して、どうやって自身や他人と共存していくかを分析してあげた方が早い。
 「結局、自分はこういう人間なんだ」という諦めにも似た、開き直りとは違う、自己肯定の形があっても良いのだと思う。30年近くやってきたんだ。自分ひとりにくらいは、その性質も愛されないと。

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