2020年、正しさのない道をゆく
私は、決められないひとである。
2020年の4月に自粛が始まってから今日まで、新しく始めたことがいくつかある。
そのうちの一つである将棋は父から半年くらいかけて、ずっと手ほどきを受けている。なお、勝てたことは一度もない。現状私が真っ先に倒すべき相手は父であり、日々虎視眈々と勝利のチャンスを狙っている。今のところ勝てたことはないが。
将棋を初めて慣れてきた頃からずっと父に言われる言葉がある。
「正解を求めるな。」
次の一手を指すときに、
「これどう?」「これあってる?」「正解?」
と、とにかく聞きまくる私に父が放った言葉だ。
(なお父はそんな私を「潔癖」と言う)
もう一度言いたい。
私は、決められないひとだ。
決断をするとき、行動するとき、悩む。それはそれは悩む。そして何事もなく進む。
どれほど悩んでも、行動をしなければ私の凪いだ日々は変わらずに進んでしまうのだ。
私の脳がひたすらに同じ道をぐるぐると歩いても、世の中の不条理はなくならないし、外出はしづらいままだし、私の人生は凪いだまま時を刻み続けると思っていた。
だから、悔しかった。
2020年5月30日。
偶然観た『門外不出モラトリアム』に、劇団ノーミーツの熱意に浮かされてしまった。
だって悔しいじゃないか。あの時みんな、私と同じようにぼうっとしていると思っていたのに、あんなに進んでいく船があるなんて。ずるい。悔しい。
とにかくそれだけを詰め込んで感想を書いた。
その夜、公演で見た覚えのある名前から通知が来て、私は取り合えずびびった。
雑な言葉で申し訳ないが、本当にびびった。というかむしろあそこでびびらない人なんていないんじゃないか。
あんな雑なnoteに。どこにでもいる大学生が書いた、ちょっと失礼ともとれる感想にリアクションが来るとは本当に思っていなかったのだ。
あの熱に浮かされて、そのまま勢いで募集されていた次の公演のSNS担当なるものに勢いで応募した。
今思うと意味が分からないのだが、その日の夜24:50頃に返事が来た。一度お話しませんか、と。
冷静に考えて、スピード感がおかしかった。
当時の私は案の定びびりまくって友人に電話をし(夜中なのに)最終的にいかに『門外不出モラトリアム』という作品が素晴らしいのか語って寝た。
あの時、私がいつものようにただタイムラインを眺めただけで、『門外不出モラトリアム』を観なかったら。
あの感想を、ノーミーツの大人たちが見つけなかったら。
私の悩んだ一言だけのツイートに、いいねが押されなかったら。
あのbosyuに、いつものように悩んで結局応募しなかったら。
そもそも、コロナがなかったら。
私は、今より少しぼうっとしていて、今より勇気のない、凪いだ日常の中にいたんだろうな、と思う。
踏み出すことは、こわいことだ。少なくとも、私にとっては、一つの応募を送ることも、誰かにメッセージを送ることも、どちらもこわいことなのだ。
今の私は
「ッカカカ」
という八分休符と三連符の通知音にもすっかり慣れたし、メッセージアプリで誰かをメンションすることも慣れた。
入りたての頃よりは、役に立てているかな、と思う。
できないことも多いし、ミスもするし、悔しい瞬間もたくさんあるけれど。
劇団ノーミーツは、すごい人たちの集まりだ。
やれることも、やりたいことも、山のようにある人たちで、プロジェクトが進むスピードもすごく早いし、邁進という言葉がぴったりだな、と常々感じている。
みんな一体いつ休んでいるのだろう、と少し思うし、なんでそんなにすごいんだ、とも思う。
ノーミーツの大人たちの無邪気は、私にとっては勇気で、あれほど勇気がある人たちを私は見たことがない。
だって、勇気がなければ、前例のないものは作れないし、第3回公演で「会う」なんて無茶しないだろう、と思う。(もちろんあの演出がノーミーツにとって2020年にやるべきことだったであろうことは事実なのですが)
劇団ノーミーツは必然性と勇気でできているし、あの船を進める大人たちは誰よりかっこいいと世界中の人に胸を張って言いたい。
でも、たまたま運良く劇団ノーミーツの劇団員としていろいろ携わらせてもらっているけど、この半年で私がめちゃめちゃすごくなったかと言うと、全然すごくならなかった。
相変わらず悩んで行動しない瞬間もあったし、ケアレスミスは多いし、キャパシティは広くないし、めちゃめちゃすごい大学生とかになったりもしなかった。変わらず普通の、どこにでもいる大学生だった。
でもそれって当たり前で、めちゃめちゃすごい人たちの中にある日突然ポンって放り込まれたからといってめちゃめちゃすごくなったりはしないのだ。それに、ノーミーツの大人たちは、かっこいいしすごいけど、当たり前にみんな私と同じ人間なのだ。私の世界は狭かったから、その当たり前に気づくまで、少しだけ時間がかかってしまったけど。
第一、私はすごくなりたわけではない。もっといろんなことはやれるようになりたいし、この劇団の魅力をもっと分解して、もっと届けたいとは思っているが。
だから、私は決められないひとであることに甘んじることにした。
勢いで流されてもいいじゃん、って思うことにした。
すごくなくてもいいじゃん、って思うことにした。
普通の大学生で、いいじゃんって思うことにした。
でも、これだけは2020年に置いていくと決めた。
一歩踏み出せない自分だけは、置いていく。
一歩踏み出せないのは、踏み出した先が「正解」か、わからないからだ。
今までは、比較的「正解」がわかりやすくて選びやすかった日々だったけれど、生きている時間が長くなれば「正解」がわからないことなんて山のようにある。
今の自分の選択が、正解かなんて、死んでもわからない。きっと。
だったら、「正解」じゃなくていいじゃん。
だから、悩んでも、気になったことはちゃんと踏み出せるように、私は崖の前でおろおろしてる私と、崖からおろおろする自分を突き落とす私を携えて、2021年、頑張って生きていく。
「正解」を越えて、父との対局にも勝てるようになります。
そうして、100%じゃなくて、めいっぱい背伸びをした120%で、頑張っていく。
本当は、今もこの文を公開するのは少しこわくて、誰かを傷つけたり、失望させたり、悲しい気持ちにさせる要素はないかな、と何度も確認をしてしまう。
傲慢なことを書いているのかもしれないな、と思う。
でも、誰かがこの文章を読んだときに、私のようにすぐ「正解」を求めしまうことに悩む人が読んだときに、まあいっか、って思ってもらえたらいいな、とも思う。
この文章が、いつかの私の勇気になりますように。
そう祈って。
2020年、大変お世話になりました。
私にとっては「いい一年」でした。
2021年も「いい一年」にします。
蛇足:結局年内に書きあがらず、さっそく崖から突き落とすまでに結構な時間がかかるな、と悩んでいます。自分の文を公開するの、いつも勇気がいるんですが、今年は下書きに放り込まず、できる限り公開ボタンをそいやっと押せるようになります。