「自分は無能」という認知の歪み
2週間前に書いたメモが出てきたので、加筆修正して以下にまとめておく。
「自分は無能で、新しく何かができるようになったことがない」とずっと思ってきた。
本当に理解を伴って習得できたのはビオラという楽器の演奏技術くらいだろう(それも10年以上かかった。恵まれていることだが)。
一方、他の大抵の物事は「本質の見えない非体系的なカオス」としてしか捉えることができなかった。
そして自分はいつも
にいた。
場当たり的な生き方しかできなかったのだ(追記:眼前のことに必死なため脈絡を意識できない、という意味)。
例えば「自分がバイトに行って帰ってくること」が自分や雇用主や顧客にとって何を意味するのかが全くわからなかった。今なら「時間と体力をどのくらい捧げたら何円になるから生活できる」とか、「客は何がほしい・店は何を売りたい、という仕組みで動いている」くらいなら一応考えることができる。
とはいえ、このような最低限の理解にすら辿り着けず、外界がカオス化してしまうことも多かった。
例えばバイトで普通に働くことができていても、自分では何をしているのか全然わからなかったり。しかも、やりたくてやってるわけでもなかったり。
そういった事態が日常生活・学業・遊びで頻繁に発生していた。とにかく何事も難解に見えるので、自ら取り組む気がしなかった。できることなら何もしたくなかった。
その理由は、自分がすごいバカか無関心だからなんだと思ってきた。そして、それはとてもつまらないことだと感じられた。有能になって人の役に立ちたいわけではない、無能だとつまらなくて虚しいのだ。
しかし最近、絶対無理だと思っていたギターを始めたし、読み書きの仕事をもらえたし、書類も書けたし、人に喜ばれるお店選びもできた。
このように「自分は〇〇ができる/できた」という事実について、満足感とともに、ようやく認められるようになった。今までもできることはあったはずなのに、自分の主観ではうまく認識することができなかったのだと思う。また「自分は〇〇ができる/できた」と言語化することで、カオスも少し解けてきたかもしれない。
要するに、認知の歪みが少しマシになったかもしれないということだ。
その原因はまだ解明できていないが、
死を意識すること(→安堵感と寂しさ)
欲求を見つけること
他者と関わって自分の輪郭を確かめること
なんかが、もしかしたら鍵かもしれない。
他にも、語彙・論理の習得や、人間の自然な心の動き、および社会のあり方について理解を深めることが今後必要だと予想している(つまり小説を読むべきだ)。
まだ無能感は強いが、「自分には何も無い、なんてことはない」という事実は認めるよう心がけたい。
以上。
執筆者のアレキシサイミア傾向についてはこちら。