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「好き」と「好きだった」の狭間

こんにちは。お久しぶりです。
突然なのですが、今「好きなもの」ありますか?

そう、尋ねられたら何を思い浮かべるだろう?
好きな色、最近美味しくてつい頼んじゃうオーダー
頑張ったご褒美にコンビニで買っちゃうお菓子

あっ、お水無くなっちゃった。
ちょっと注いでくる。ちょい待ち

、、、ただいま。そう、今ファミレスに来てます。
目の前には熱々だった過去形のピザ1枚と、残り3分の1くらいのチキンステーキ。
何かしらお肉はつい頼んじゃうよね、タンパク質。

あ、店員さんが会いたお皿を片付けて良いか丁寧に聞いてくださり持って行ってくれた。
「ナイフ大丈夫ですか?」と聞かれ、
「あ、はい大丈夫です、、」と小声で答える。

いや全然大丈夫じゃなかった3分の1残ってたのピザ食べてたら忘れてた。、、ワイルドに食べよう。
あと何か追加で頼もうかな、、デザート(もうちょっとゆっくりしたい)

、、まぁ話を戻そう。「好きなもの」。
まぁ、これは沢山あるのだけれども

昔すごい好きで、今も好きだけれど、
あの時の熱量と違うなぁの時。
今も割と好きでいたんだけども、楽しい思い出を共有した人と気まずくなり、むしろ苦手な感情が蓋をしてしまう時。

前者に至っては、シンプルで過ぎた時間や経験値で見方が変わることが大きいだろう。
「大人になったから」で済ませることができるけれど、後者はやや複雑。だって、そんなに大きく年齢も変わってないし、「思い出」とか「記憶」が勝手に純粋な好きな気持ちを濁った色にしていく感覚。
これって本当に厄介で、全部その相手のせいや物事のせいにして全部嫌いになれたら吹っ切れて良いのかもしれないけど、どうしても楽しかったシーンとか記憶がチラつく。そりゃそうだよな人間だもん。

だから、私はこういうことには、
時間をたっぷりたっぷり置いて、(そういえばそんなんあったな〜)というくらい心が落ち着いたら
改めて、深くは掘らずに色々ざっと思い出して
(新鮮なとこ行けたな〜アレはなかったな〜笑 でも、知らない景色見れて良かったなぁ。ありがと)
くらいの感謝をすることにした。

その次は、自分プロデュースand プレゼンツby私による食べ物巡りツアー。(めんどいから、網羅できる手軽なファミレスとか)
その時のほろ苦い記憶で終わらないように、
食べ物には罪はないからね。
あの時楽しかったメニューを頼む、
(まぁ食べたかったものを食べればいいと思う)

これがまぁぁ美味しい🤤
その人に依存せず、自分の選択で今このとっても美味しい味を楽しめていることに嬉しさを感じる。

純粋な好きな気持ちを、些細なことで「嫌い」と蓋をしたりしてしまうのは、ちょっと勿体無い。
けど、どうしても歳を重ねて、出会いや経験を経て無意識的にも変わっていく部分はあるのが人間だし、それを成長と呼ぶのだけれども。このそれぞれの「好き」の気持ちの狭間にはいろんな感情やら記憶からの影響度が計り知れないと思い知る。

でも、好きなコンテンツや物には、自分が「好きだなぁ」と思える程の魅力があった事実には変わりない。だから、それを(素敵だなぁ)と思える自分ではありたいし、純粋な気持ちはあの頃と変わらず大事にしていたい。

そういえば、この間「ミステリという勿れ」を一気見したのだが「真実は人の数だけある。事実は一つだけ」という言葉がとても心にストンと腑に落ちた

あの頃楽しいを共有してくれたあの人は、もう出会うこともないだろうけど、本当に楽しいと思っていてくれただろうか?あの笑顔の下では本当は何を考えて、私をどんな風にその目に映していたのだろう。その真実は分からないし、分かりたくもないのが正直なところだけれども、ね。
私は結局追加で頼んだデザートはペロリと食べ終わってしまったし、アイスクリームもあったからクーラーも相まってちょっと寒い。でも、とても美味しい日曜日の昼下がりを楽しんでいるのは事実だし、過去の友人にもそれなりに楽しく居てくれたらいいな〜と少しだけ願うのもまた、事実。

その真実の裏は?
ん〜さて、どうでしょう。
好きなものを取り戻して、「好き」を楽しむ自分、
それを愛していけたらいいなと思うそんな話でした

おわり。


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