九月著『走る道化、浮かぶ日常』感想。"「やや不思議ちゃん」とは何か"
九月くんの著書、『走る道化、浮かぶ日常』を読んだ。本書を通じ、この世がまた少し平和になった。ページをめくるたび鳩が一羽、また一羽と羽ばたき、読み終わる頃にはひと握りの愛と大量のフンだけが僕の手元に残った。
"「やや不思議ちゃん」とは何か"
ー誰かにそう見られたいがために、多少の無理をすることはあると思う。少なくとも僕はそうしている。
割と多くの人がそうしているんじゃないだろうか。元来の性格なんて突き詰めると分からなくなってしまうんだから、おおよその理想像を設定し、チューニングを合わせる。その繰り返しの先にあるものこそ、自分だと言ってやりたい。
勝手にそうなっていた人なんて、ほとんどいないはずだ。
今一度考えてみてほしい。
例えば路地裏が好き、なんて本能的に思うわけがない。
そりゃ良いよ、僕も好きだよ路地裏。ただ路地裏が好きな自分の方が好きだ。自覚的に路地裏を愛している。
サブカルチャーの苗床だと言わんばかりの面構えをしているくせに、どこにでもある矮小さが良いじゃないですか。
ただのジメジメとした道だ。別に何ら特別なものでもない。多少苔やらが生えているだけの道に過ぎない。
路地がこの世に存在しているだけ、当然同じ数の路地裏がある。
それなのに、不可侵の聖域だと思わせてくれるいじらしさも堪らない。
とは言え、路地裏に思い出がある人もそういないだろう。
わざわざ好きになる必要がある。反射で愛せるようなシロモノじゃない。
大抵景色なんてものは、忘れられない鮮烈な記憶と紐ついていたり、人生をほんのり豊かにしてくれるものだ。
それが路地裏にはまるで無い。少なくとも僕にはマジでひとつもない。
幾度となく通ったことはあれど、だからと言って何もない。
あれだけ好きなのに、僕の過去には一本の路地裏も通っていない。ただ何となく路地裏って格好良いなと思ったからだ。
ただ何となく路地裏が好きな自分って格好良いな、と思ったからだ。
そんな僕を皆はどう思ってるんだろう。
路地裏で紫煙を燻らせ、Radioheadを聴きながら僕は独りごちる。