境界を越えるバス/都県境編21/寿橋・両国橋
東京神奈川都県境 境川編その7
2024年11~12月現地調査
2024/12/13初版公開
データ類は特記なき限り2024年12月現在のものです。
図表・画像類は、特記なき限り筆者自らの手によるものです。
都県境を越えるバス路線の境川編、ついに橋本駅発着路線までたどり着きました。久しぶり?に多数の系統が境川を越える橋になります。JR横浜線と並走する区間では、最も上流側にあたります。
橋の位置
今回紹介する橋のうち、下流側に架かる寿橋は、境川河口から約43.5kmの地点に架かる。前記事で紹介した小山橋からは2.5km以上離れた場所になるが、間にはバス路線が通らない橋が多数ある。両国橋は、寿橋の約700m上流側に位置する。どちらの橋も、橋本駅から直線距離で1km前後の場所にある。
寿橋の付近の境川左岸は、ほぼ東京都町田市小山町であるが、旧流路の関係で、橋の上流側には神奈川県が少しだけ食い込んでいる。右岸は神奈川県相模原市緑区橋本4丁目と5丁目の境目になる。詳細は後述するが、橋本5丁目は元々は橋本村→大字橋本の一部であったが、橋本4丁目は元々は小山村→大字小山の一部であったため、小山と橋本の境目であった。通っているのは町田市道/相模原市道である。橋を含めて前後の道が整備されたのは、1960年前後と推定される。
両国橋の左岸は、東京都町田市相原町である。右岸は神奈川県相模原市緑区橋本5丁目と元橋本町の境目になる。橋本という地名は、両国橋の袂にある宿場町であることから名づけられたという説がある。通っているのは国道16号線旧道。古くからの八王子街道/大山街道である。新道=バイパスが自動車専用道に接続されているため、旧道も国道指定を外れていない。この辺りは、詳細は後述するが、江戸時代より前は川の両岸とも相原村であった領域でもある。
経由するバス路線
寿橋
寿橋は、橋本駅北口から真っ直ぐ北北東方向に進んだ位置にあるため、たくさんのバス路線が経由する。直近の停留所は、橋の北詰に存在する寿橋停留所。バス路線は橋の北側に位置する久保ヶ谷戸の交差点で三方向に分かれるので、方向ごとに解説する。
町田街道を東方向へ進む路線
久保ヶ谷戸交差点を右折するのは、"町30"系統町田バスセンター/バスターミナル行がメインとなる。この系統の一部は多摩境駅に立ち寄り、系統名も"町60"系統となる。日中は両者合わせて毎時3本程度運転され、うち1本が多摩境駅へ立ち寄る。以前の記事の中でも近隣路線として何度か登場しているこれらの系統は、1950年代後半には開設されていた古くから存在する路線である模様。出入庫便で途中で町田街道を外れて神奈中多摩車庫行となる便は"橋80"系統となる。本数は非常に少なく、運行時間帯も朝の出庫便/夜の入庫便に限定される。町田方面からの多摩車庫発着便は"町62"系統となるが、こちらも運転本数僅少である。これらの系統は、神奈川中央交通多摩営業所が担当する。
久保ヶ谷戸トンネルを抜ける路線
久保ヶ谷戸交差点を直進するのは、その先をさらに直進する"橋75"系統多摩美術大学行と、多摩境通へ右折する"橋76”系統多摩境駅経由多摩車庫行がある。久保ヶ谷戸トンネルの開通は2000(平成12)年なので、これらの路線はそれ以降に開設された新しい路線である。これらの路線も神奈川中央交通多摩営業所の担当である
"橋75"系統は多摩美術大学への通学輸送を担うメインの路線で、この後説明する経路違いの系統と区別するため「トンネル経由」と案内される。運転本数は日中で平日日中で3~4本程度。運転時間帯が8時台~19時台とやや短い。。
"橋76"系統は多摩境通を走る主系統で、出入庫路線ではない。毎時2~3本程度の運転。土休日の日中時間帯は、多摩境通の渋滞回避のため、橋本駅行方向の約半数の便が多摩境駅始発の"橋73"系統として運転される。なお、
町田街道を西方向へ向かう路線
久保ヶ谷戸交差点を左折する路線の1つに、多摩美術大学行の経路違いとなる"橋78"系統がある。この路線は、すぐに町田街道を外れて国道16号線を北行した後、東方向へ進路を変え多摩境通の西端区間を走り、経由地として案内されているリーフィル町田小山ヶ丘を通った後、上記の"橋75"系統のルートへ合流する。毎時1本の運転だが、多摩美術大方向の運転が11時台~20時台/橋本駅方向が6時台~15時台と、運行時間帯に特徴がある。この路線も神奈川中央交通多摩営業所が担当する。なお、本系統が走る町田街道と国道16号線の間の短絡路のように見える道は、実は町田街道の旧道である。相原の交差点では、町田街道西行から国道16号北行への右折ができないため、路線バスはこちらの道を通っている。
更に町田街道を西に進む路線でメインとなるのは、"橋63"系統相原駅西口・法政大学経由大戸行である。毎時1~2本程度の運転である。橋本行の朝間/大戸行の夜間は法政大学を経由しない"橋61"系統として運転される。平日朝に各々片道1本だけ、相原駅西口に入らない"橋16"系統大戸行/"橋20"系統法政大学行がある。これらの路線は、神奈川中央交通西の三ヶ木営業所が担当する。大戸まで行く路線は、終点近くで再度境川を渡るため、起終点付近が相模原市/昼間の大部分が町田市を走る路線となる。なお、法政大学への通学輸送の主力系統は”原19"系統相原駅西口~法政大学である。運転本数は非常に多く、通学時間帯に走る急行便には、連節バスも投入されている。連節バスだけは、神奈川中央交通東の橋本営業所担当である。
相原駅西口駅前広場が整備される以前は、"橋25"系統法政大学経由大戸行が主力であった。法政大学へ入らずに大戸を結ぶ"橋16"系統はそこそこの本数が運転されていたが、法政大学折り返しとなる"橋20”系統は本数僅少で廃止されていた時期もあった。ちなみに、"原19"系統などの相原以西で運転されていた路線は、相原停留所付近の町田街道沿いに設置されていた折返場を使っていた。
2016年3月に駅前広場が整備され相原折返しの路線が駅前広場発着となった後も、橋本駅発着の路線は相原駅に入らなかったが、2021年4月の路線再編で、相原駅西口に入る"橋61"~"橋63"系統が新設されて主力となり、同時に"橋25"系統は廃止されている。"橋62"系統は法政大学始発で、平日日中に橋本方向1本だけの運転であったが、2024年3月のダイヤ改訂で廃止された。
両国橋
両国橋を渡る路線は2つある。いずれも源流をたどるとそこそこ歴史の長い路線になる。
1つは神奈川中央交通の多摩営業所による、"八77"系統八王子駅南口~片倉台~橋本駅北口である。毎時1~2本程度の運転である。元々は、八王子と橋本を結ぶ路線は片倉台に入らない"八72"系統であった。これとは別に"八71"系統八王子駅南口~片倉台と"橋70"系統片倉台~橋本駅北口が存在した。が、2012年4月に統合され現在の運行形態となる。なお、2010年11月以前は八王子駅北口発着であった。路線そのものは1960年頃から存在する。その当時は、現在の"町30"系統に相当する、原町田駅(当時)方面との直通運転も行われていた模様。
もう1つは京王バス南大沢営業所が担当する、"南63"系統南大沢駅~橋本駅北口である。橋本駅に乗り入れる唯一の京王バスグループの路線である。この路線は多摩美術大学の北側を通る。2003(平成15)年に"橋13"中央大学~京王堀之内駅~橋本駅北口の橋本駅側を分割して誕生した。この路線の大元を辿ると、1960年頃に既に開設されていた、聖蹟桜ヶ丘駅から野猿街道・柚木街道・国道16号線(八王子街道)を経て橋本駅までを結ぶ路線に行きつく。途中までは前記事で紹介した、後に"桜84"系統となる聖蹟桜ヶ丘駅~相模原駅と同一の経路を走ったようである。南大沢駅から北側は、現代では"桜80"系統聖蹟桜ヶ丘駅~南大沢駅でたどることができるが、厳密には"南64"系統南大沢駅~京王堀之内駅と"桜88"系統京王堀之内駅~聖蹟桜ヶ丘駅が直接の後身である模様。
両国橋の北詰も町田街道街道と交わる相原交差点が近いが、バス路線は南北/東西方向共に、直進するものしか存在しない。近隣のバス停は両側ともに少し離れており、町田市側が坂下、相模原市側が橋本本町となる。坂下の停留所は交差点からかなり北側に離れており、本項で紹介した路線の他、前項で述べた "橋78"系統も経由する。この路線は、先述したように、町田街道と国道16号線の間の短絡路=町田街道旧道を走るため、両国橋北詰の相原交差点には来ない。相原交差点から西にやや離れた町田街道上にも坂下の停留所は存在し、法政大学/大戸方面に向かう"橋61"系統や"橋63"系統などが停車する。
周辺自治体の変遷
この付近は、以前の記事でも述べたように、1594年の太閤検地により、当時の高座川=現在の境川が武蔵・相模の国境として定められた。それ以前の国境については諸説あるが、この付近では多摩川と境川の分水嶺が比較的明瞭であり、そこに国境もあったのではと比定する説が有力である。小山と相原は、川の両岸に広がっていた。
ちなみに、本記事序盤ででてきた久保ヶ谷戸トンネルが貫いているのはまだ分水嶺ではなく(尾根筋にもなっていない)、多摩境通との交差点を越えた先、坂を登り切った部分の掘割が多摩川との分水嶺となる。
太閤検地以降、この付近の境川北岸は武蔵国多摩郡小山村・相原村となり、その境界は、現代の寿橋/両国橋の中間付近となるが、特に目立った地形的な特徴はない。小山村は江戸時代を通じてそのままであった。相原村は江戸時代の初期に上相原村・中相原村・下相原村の3つに分かれたが、明治初期に再度合併して相原村に戻っている。1889(明治22)年の町村制施行の際に小山村と相原村が合併、神奈川県南多摩郡境村の大字小山/大字相原となる。多摩地区の東京府移管/東京の都制施行を経た後、1958(昭和33)年に合併で東京都町田市小山町/相原町となり、現在に至る。なお、小山町の北側に位置する小山ヶ丘の西端は、小山町ではなく相原町のエリアであった。
一方、境川南岸は、太閤検地以降、元々の小山だったエリアを含めて、相模国高座郡相原村となったようであるが、江戸時代の初期1646年に橋本村/小山村/下九沢村が分村している。この時、現代の寿橋の南詰辺りが小山村と橋本村の境界となるが、当時、寿橋は整備されておらず、北岸の小山村と相原村の境界同様、この辺りに地理的に明確な目印となるものはない。両国橋南詰付近は橋本村となっている。1889(明治22)年の町村制施行で、合併により神奈川県高座郡相原村大字小山/大字橋本となる。1941(昭和16)年にかなり広域の周辺の町村と合併し、高座郡相模原町大字小山/大字橋本となり、1954(昭和29)年に市制施行して相模原市大字小山/大字橋本となっているのは、他の相模原市に属するエリアと同様である。寿橋南詰下流側が、住居表示の実施により大字小山→橋本4丁目となったのは1966(昭和41)年である。寿橋南詰~両国橋南詰間の橋本5丁目や、両国橋南詰の上流側となる元橋本町については住居表示の時期詳細は未詳であるが、ほぼ同じ時期に行われたと推定され、遅くとも1967(昭和42)年中には現在の地名となっている。