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境界を越えるバス/都県境編17/境川橋
東京神奈川都県境 境川編その3
2024年7月現地調査実施
2024/08/07初版公開
データ類は特記なき限り2024年8月現在のものです。
図面・写真類は特記なき限り筆者自ら作成・撮影したものです。
ついに川の名前がそのまま橋の名前になってる地点の登場です。本記事から、路線バスの運行拠点となる横浜線の駅が、境川の右岸側=南側になります。駅は、河岸からかなり坂を登った上にあります。
境川橋の場所/古淵駅との位置関係
境川橋は、前記事の森野橋より境川をおおよそ2km半ほど遡った地点に架かっている。左岸側は東京都町田市木曽東2丁目/右岸側は神奈川県相模原市古淵1丁目と4丁目の境界である。
都県境も、参照した地図により微妙な差はあるが、この付近では概ね境川に沿っている。河川そのものも細かくは屈曲しておらず、古い地図を見ても現在の流れとは大きくは異なっていない。河川改修工事が行われたものの、それに伴う都県境の変更はさほど大規模なものにはならなかったと推定される。
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赤線は本記事で紹介するバスが走る経路(筆者追記)。
都県境が橋を境に左岸から右岸に移っていますが、大半の地図は川沿いになってます。
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そんなに大きな橋ではないです。
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都県境=旧国境は川に沿って延びています。
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画面左側=相模原市側は崖が迫っているのが判ります。
通っている道は、町田市道・相模原市道となる。相模原市側は「古淵なつつばき通り」の名前がついているが、町田市側には特に名前がつけられていないようである。橋そのものは明治期以前から(近い場所に?)架かっていたようである。前後の道は徒歩道(=「荷車を通さざる道」の記号で描かれている。この時代の地形図で片側が破線で描かれている道が該当)のようであるが、かなり遠くまで伸びていることから、そこそこの街道だったのかもしれない(調査未了)。
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左側は1906(明治39)年測図版。クリックすると拡大します。
古地形図だと、右岸の崖がよくわかります。
境川両岸の地形であるが、町田駅近辺では判りにくいが、前記事の森野橋周辺のみならず、その前の記事で紹介した(もう1つの)鶴間橋界隈も、町田市側は尾根筋が近いにもかかわらず地形が比較的穏やかであるのに対し、相模原市側はそこそこ近い所をやや急峻な崖が通っている。実際、JR横浜線も境川右岸=南岸に移って以降、線路は掘割構造となっていて、境川を渡って1km弱進んだ古淵駅も、まだ掘割の中にある。横浜線が横浜鉄道として開業した明治期には蒸気機関車牽引の列車だったので、あまり急な勾配にはできなかったためこのような構造になったと推定される。
そもそも古淵駅自体が新しく、国鉄からJR東日本となった後の、1988 (昭和63)年に設置された駅である。駅から境川付近に向かうバス道路もその頃に整備されたものらしく、掘割となって下っていく。境川橋までの標高差は十数mほどである。
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そこそこの坂で掘割になって降っていきます。
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掘割で登り坂になっています。
経由するバス路線
境川橋を渡るバス路線は大きく2つにわかれる。
1つは古淵駅を起終点とし、町田市側の住宅街を結ぶ”古02”系統古淵駅~山崎団地と"古03"古淵駅~藤の台団地である。神奈川中央交通の多摩営業所が担当。両系統は終点付近の数停留所分以外は同じルートを辿る。両者合わせて毎時2本程度の運転であるが、両系統の間で運転本数が大きく偏る曜日・時間帯もある。なお、どちらの終点からも、町田駅方面に向かうバス路線が頻発運転されている。
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もう1つの路線は、前記事でも紹介した"町09"系統町田バスセンター~古淵駅~国立相模原病院~小田急相模原駅である。森野橋を経由するルートであった路線が、2003(平成15)年12月より古淵駅経由に変更され境川橋を渡るようになった。その後、古淵駅以西での運転となる"古09"系統が2016(平成28)年7月より設定されて置き換えられていき、2019(令和元)年12月以降は、平日・土休日とも、ダイヤは異なるが日中に1時間間隔で6往復のみの運行となっている。こちらは神奈川中央交通東の相模原営業所が担当している。
橋に最寄りのバス停は、相模原市側は比較的近い場所にある鹿島神社入口となる。町田市側のバス停は、橋のすぐ近くを通る町田駅前通りに曲がってからとなり、"古02""古03"系統は淵辺野方向へ少し進んだ場所にある境川団地中央、"町09"系統は町田駅方向へやや進んだ場所にある境川団地入口となる。この町田駅前通りには、町田駅方向から北西方向へ多数のバス路線が通っている。
自治体の履歴
このエリアの境川左岸地域は、江戸期には武蔵国多摩郡木曽村であった。1889(明治22)年の町村制施行により、周囲の村と合併して神奈川県南多摩郡忠生村大字木曽となる。東京府への移管、東京の都制施行を経て、1958(昭和33)年に周辺自治体と合併、市制を施行して東京都町田市木曽町となる。2007(平成19)年の住居表示実施により、橋の北東詰付近は木曽東2丁目となり現在に至る。
境川右岸地域は、江戸期には相模国高座郡淵野辺村の一部であった。1989 (明治22)年の町村制施行に伴う合併で、神奈川県高座郡大野村大字淵野辺の一部となる。1941(昭和16)年に合併で神奈川県高座郡相模原町となる。1952(昭和27)年に大字淵辺野から大字古淵が分立。1954(昭和29)年に市制施行で神奈川県相模原市大字古淵となる。住居表示は1991(平成3)年に実施、橋の南西詰付近は古淵1丁目と4丁目の間となる。2010(平成22)年、相模原市の政令指定都市移行に伴い、同市南区の所属となり現在に至る。
ちなみに、明治中期の合併で大野村が成立した際、現在の古淵3丁目付近に村役場がおかれた。大野村は現代の国道16号線の原型となった神奈川往還沿いの複数の村が合併して成立しており、古淵はその中間付近だったからである。この場所は、後の相模原町/相模原市の出張所や支所を経て、現代では相模原市の南区大野中まちづくりセンターとなっている。
ただし、横浜鉄道→国鉄時代にはこの付近に駅が設置されていなかったため、長らく発展はしていなかった。1960年代後半から宅地化が進み、JR東日本に移管された後の1988年に古淵駅が設置される。1993年に周辺の国道16号線沿いにショッピングモールが進出している。