江戸初期・西国大名のお城と墓所
きっかけ
宮本武蔵には二つの石碑があります。
熊本の武蔵塚と小倉の小倉碑ですが、どちらもお城の北東方向に位置しています。幾つかの城主の墓所を調べても北東方向が多いように思われます。
鬼門封じだろうと考えられる方も多いでしょうが、実態を調べて見ました。
姫路城 本多家
福山城 水野家
小倉城 小笠原家
津山城 森家
岡山城 池田家
萩城 毛利家
高知城 山内家
福岡城 黒田家
熊本城 細川家
鶴丸城 島津家
まとめ
鬼門封じ
確かに北東方向が50%、南西方向が14%と多くなっていますが、実際に鬼門・裏鬼門に入るものは41%に過ぎません。
一方、東側(北東+南東)では鬼門の倍近い77%にもなりますので、鬼門封じにかこつけた別の何かがありそうです。
墓所の選定
最も脅威と思う方向を先祖に護ってもらおうと考えるのではないでしょうか。
代表的な二つの脅威
東側はご存じ江戸幕府です。西側は幕府にとって反乱の可能性のある西国大名たちです。
二つの脅威の趨勢
反乱の可能性のあると名指しされた(主に外様)西国大名たちは脅威の中心が幕府であることに変わりありませんが、幕府に比較的近い(主に譜代)人々は1640年頃を境に変化が認められます。
大坂の陣(1614-5)で反乱分子がまだまだ多いことを危惧した幕府は西国の備えのため、姫路:本多家、明石(→小倉):小笠原家、福山:水野家を配置します。反乱分子は時と共に衰退して行きます。相対的に幕府の存在が大きくなっていきます。西国を監視する立場から幕府に監視される立場に変わっていることを気づかされます。
姫路:西が小倉・福山:東と変化して行きます。
宮本武蔵の二つの石碑
宮本武蔵には熊本の武蔵塚と小倉の小倉碑という代表的な二つの石碑があり、その二つ共がお城の北東方向に位置していると冒頭に述べましたが、これは幕府に監視される立場に関係があります。具体的には幕府の兵法指南役である柳生一族の存在です。陽に陰に弟子を送り込んで来ます。まんまと罠にはまってしまったのが熊本・細川藩です。藩内情報が幕府に筒抜けになりますが、武蔵を招聘することで事なきを得ます。武蔵は四家・六大名で三十七年間(1608-45)、実質的な兵法指南役を務め、幕府の攻勢を防いだと言えます。秘かにこの功績を讃えて江戸のある北東に向けて石碑を建てたのだと考えます。