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文化が違うは言葉が足りない

2022年のFBから

福井に来ていた。

日本側からのコメントや議論でどうも残念なのは,ある理論や概念とその応用をめぐる齟齬や難しさの要因を「文化」に求める傾向。理解の齟齬や価値観の違いをめぐる問題の解像度を上げる経験や訓練の圧倒的な不足とした方がいいかもしれない。

こうした傾向は、日本経済がバブル経済の真っ只中にあった1980年代頃に流行った日本特殊論にもみられるし,最近では「日本すごい」のレトリックの背景に垣間見える自己憐憫にもみられる。そして、古くは日露戦争後に新聞紙上を賑わせた論調や第二次世界大戦期のレトリックでも観察される傾向。近代と近代への挑戦が不足していることによる傾向と思われる(R4年度の教師教育学会での報告につながる)。

「文化」はとても便利な言葉。

改めて考えたくない・議論したくない齟齬がある時に、その背景にある社会の複雑な権力構造や価値構造を考えることなしに、それらについてわかったような説明を与えてしまう。そこには、問いに向き合う姿勢はない。ましてや、そこにある問題を積極的に意識化して課題に変換し、その克服を図る意志はうまれない。

その何が問題かというと、「文化」と説明されてしまう状況の背後にある権力性の不均衡や社会の構造的問題が見落とされ、そこで不利益を被らない『Privilege(特権性)』を見過ごして強固にすること。こうした『Privilege』が社会制度として追認され、再生産される構造の認識と批判は、Critical Pedagogy(批判的教育学?)の主要テーマでもあって,1970年代に積極的に課題化され,大学院教育では1980年代,学部教育では1990年代には(米国)リベラルアーツのカリキュラムに組込まれてきた。

安っぽい理解をして欲しくないのだけど、異文化の存在の否定や、文化の違いの否定ではない。

重要なのは、文化とその違いを理由にできる条件を明確にすること。

文化を理由にできる条件は,その問題や齟齬を説明したい「文化」を徹底的に言語化して解体し,批判と検討の議論に晒すプロセスを社会が尊重し、その取り組みに努めていること。そうしたプロセスがあるところでは、批判と検討の議論を経て残る残渣を「文化」に起因する齟齬や理解不能な差異として承認できる。

日本社会では,残念ながら学術領域であっても(自らの)文化を徹底的に解体して合理的説明を与える必要性と実践の経験が(相対的に)不足してきたのかもしれない。家庭の間やジェンダー間にも文化差はあるはずだけど,強固な父権的温情主義(Patarnalism)の下でそれぞれの差を「文化」の折衝としてとらえずにきたのかもしれない。

日常生活で批判や折衝を避けるのは,円滑な人間関係には不可欠(僕はここが弱い)。一方で,学問や政治の文脈で批判や折衝を回避するのは自滅の道への特急券。そうしたことを沸々と考えるなかで,仕事をする上での人間関係(の円滑さ)の重要性と学問的な折衝とのバランスの取れたあり方ってどう言うものなのだろう…,そもそも「バランス」の問題ではないのでは…?と考える機会が増えた。

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