「優しさ」ということ
2022年ももう終わりですね。
今年は私にとっても激動の1年になりました。
この1年で思うこと、そして皆さんにお伝えしたいことをここに書いてみようと思います。
見返りを求めないとは?
過去の自分
何度かこのノートでも書いてきたことですが、子どもの頃から私は感情表現が下手くそです。自分をさらけ出すことが怖くてできないまま来ました。
大人になり多少、感情を表に出すようにはなりましたが、それでも今も自分を良く見せることはとてつもなく苦手です。
たぶん自信のなさの表れだと思います。こんな私が自分を良く見せていいのだろうか、前に出ていっていいのだろうかという思いは、今も拭えません。
誰かの力になりたいと思っても、表立って「私が助けてあげたんです!」なんて言えるわけないし、頑張ってますアピールも苦手。
陰でそっと支えてあげて、それで気づいてもらえなくても、その人が幸せになってくれたらいい、それだけだったんです。
ある時までは…
見誤った距離感
2年間、ある人を支えるために頑張ってきました。
当時は睡眠時間を削ってまで頑張っていたのです。なぜそこまでする必要があったのか…私の中では「恩返し」のつもりでした。
その件についてはここでは詳細は省きますが(過去記事にヒントがあるかもしれません…)、バカみたいにあまりにも忠誠心の塊になっていました。
それまでほとんど人を信用してこなかった私にとって、初めて信頼できると思ったし、だけどここまで信頼できる人に出会ってこなかった私はその距離感を見誤りました。
いつしかその人が抱えるトラブルまでも引き受けてしまうようになっていたのです。
喜んでくれたらそれでいい、安心してくれたらそれでいい。
本当にただそれだけでした。
目に見えない形で文句1つ言わず、陰で動いていました。
きっとこのことはあの人は気づかない、でも、もし、ずっとずっと後になって「もしかしてあの時…」と気づいてくれたらいいな、なんて僅かな期待があったのも事実です。
「見返りは期待しちゃいけない」そう思い続けていました。
「裏切られた」と思うのは一方的な感情か
そんな気持ちを一瞬で踏みにじられるようなことが起こりました。
目に見える形で優しくしてくれる人に比べて、私は「そこまで価値がない人」というレッテルを貼られたのです。
歯の浮くようなお世辞、高価なプレゼントといった、はっきりわかる形で支えてくれる人に比べたら私はいてもいなくてもいいような存在。
睡眠時間を削って伴奏の練習をしたこと、楽譜を何度も書きかえたこと、身代わりになってトラブルを引き受けたこと…私がこんなに頑張ったアピールをしなかったのがいけなかったのか。
最初はまだ自分を責めていました。私が不器用なんだ。ここで見返りを期待した私が悪いんだ。
そう思って我慢していた私に、さらに追い討ちをかけるようなことが起こりました。
その人が自己保身のため、私を盾にしたのです。
そのことで意外な人から攻撃を受け、依頼されていたコラボも切られてしまいます。
それは私の知らない間に行われ、本人からはっきり断られたわけではなかったので私はしばらく気づかないままでした。
切られたことに気づかないまま、練習を続けていたのです。
そして直接私に断るわけではなく、エアリプで攻撃するという行為で私は気づいたのです。
ネガティブツイートの数々
ここまできてやっと私は自分の置かれている立場に気づきました。
ショックを受けた私は当時ずいぶんとネガティブなツイートしています。
今読み返すと、いい大人がどこまでネガティブを吐き出しているんだと思いますが、この時はもうこうするしかなかったんだと思います。
音楽なんかやらなきゃよかった、ピアノなんか弾かなきゃよかった。
そしたらこんな思いをしなくて済んだのに。
この時はピアノも捨ててしまいたい、アカウントも消そう、私自身も消えてしまいたい、そう思っていました。
私を救ってくれたもの
それは1通のDMから
このあきれるほどのネガティブツイートを見て、心配したフォロワーの皆さんからたくさんのリプ、DMをいただきました。
読んでいて涙が止まらなくなるほど、優しい言葉の数々にどれだけ救われたか。
この時、1人のフォロワーさんからのDMが私の気持ちを大きく揺さぶりました。
「嫌な思い出は音楽で上書きしませんか?」
新たなコラボ依頼でした。
一度はピアノから離れようと思っていた私にとって、目を覚まさせてくれるような内容だったのです。
音楽で傷ついた心を音楽で癒す…とても嬉しい申し出だったのです。
しばらくピアノを触らない日がありましたが、このDMをいただいて、ボチボチ練習を再開しました。
救われた音源
しばらくして、やはり自分が弾いた曲が消えてしまった虚しさはなかなか消えないことに気付きました。
自分の音楽は我が子と一緒。このまま忘れ去られることも陽の目を見ないままなのも悲しい。
ある人のために弾いた曲の音源だけども、誰かもう一度使っていただけないだろうか、という思いがどんどん私の中で膨らんできました。
でもこれは私のわがままかもしれない。そんな使い回しの音源なんて、使いたいと言ってくださる方がいるのだろうか。
そんな思いが私の中で葛藤していました。
長いツイートですが、恐る恐る投稿してみました。
正直、既に録音済みでキーチェンジもできないものに、どれだけ需要があるかはわかりませんでした。
もしかしたら誰も声かけてくれないかもしれない。
でも何もしないでこのまま放置することなんてできない。
そんな思いでツイートしたのです。
しかし、このツイートをして最初にお返事をいただいたのは
「そのリストを見てみたいです。歌えそうな曲があれば…」
というものでした。
とても嬉しかったです!もう一度、私の音に命を吹き込んであげられる。
これほど嬉しいことはないのです。
神様からの贈り物
素敵な言葉の数々
しばらくして音源リストを公開すると、本当にたくさんの方が名乗り出てくださいました。こんなに私のピアノを使っていただけるとは思っていなかったので、どんなに嬉しかったか…
それだけではありません。
この事件以降、本当に音楽と真摯に向き合っている多くの方々と繋がることができました。
音楽についてとことん語り合え、たくさんのことを教えてもらい、いい刺激を与えてもらえるようになりました。
あの件は私にとってある意味、大きな断捨離だったのかもしれません。
辛い思いをして手放したものの代わりに、もっと大きくて素敵なものを神様からプレゼントされたような感じです。
私は特に宗教心があるというわけではありませんが、このことに関しては本当に神様がいるのではないかと思います。
ここで素敵なフォロワーさんからいただいた素敵な言葉を紹介させていただきます。
私がこれからしなければいけないこと…後ろばかり見ていてはいけない。
自分の音楽をすること。
思いのこもった歌詞を伝えるお手伝いをすること。
そう言われている気がしました。
「隻手音声」という言葉
もう一つ、紹介させていただきたい言葉があります。
隻手音声(せきしゅおんじょう)
離れていく縁は悲観することではなく、私が成長した証だと言ってくださいました。
そしてまた、新たに共鳴してくださる方々がいるとも…
私が与えられる優しさとは?
今回の件で、いろんな方からたくさんの素敵な言葉をいただきました。
と同時に、私が私自身を見つめ直すきっかけにもなりました
見返りを求めない優しさなんて言葉だけの理想。偽善者が言ってるだけ。
そんな風に思い始めてもいました。
だけど、見てくれる人は見てくれる。
わかってくれる人はわかってくれる。
そんな人たちは必ずいるし、それでいいんじゃないかと思えるようになってきました。
それはまた、何倍ものご褒美として後に返ってくるのだから。
この言葉を私は忘れないようにしようと思います。そのための今年の試練だったんだと思うのです。
そして今回の件で、たくさんの優しさをくださった皆さんに、少しでも恩返しができるように、これからも頑張っていきたいと思っています。
今年は本当にお世話になり、ありがとうございました。
2023年もまた、よろしくお願いいたします。
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