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自分のタブーをしてみてわかったこと。
私的に「常識」「良し」とされていたものをしないでみる、逆にいうとタブーをしてみたら、気づいたことがありました。
私は、無意識に周囲の人、家族の世話をよくしていました。
特に親族に対して、両親からはじまり、あっちの人、こっちの人が気になってはちょくちょく連絡を入れて近況を聞いたり、会ったり物を贈ったりしていました。
「与えること」がいいこと、と思って動いてきてもいました。
が、私のその行為の根底にあったものは、愛を請う姿であり、そうして交流を取ることで私が愛を感じたい、私が自分自身に価値を感じたり家族に認めてもらいたかったのか、と時間をかけて気づいていきました。
そして、何かそうした「良いこと」をしていないと良くないことが起こるかもしれない、という漠然とした恐れもあったかもしれません。
人の世話をせずにはいられなかったのは、「自分には価値がない」を感じないようにするため、の防衛のひとつでもあったでしょう。
が、NOを言ってみる、世話をやたらにしない、一生懸命話しを聞かない、手土産を持って会いに行かないなど、
やってみて分かったのは、
「私はゆるされていて、愛されていて、何も問題はなかった」
問題だったのは、何か、世の中的に良しと言われている(これも怪しい)をしないと問題だ、人としてまずい、と思っていた私の心が問題だったんだ、と言うことでした。
気を利かせたり、一生懸命話しを聞いたりしなくても、相手を喜ばせず不快にさせたり、不穏な雰囲気になっても、
みんなゆるされている。
タブーをしても結果的にゆるされている。
本当に1番怖いのは、
そういうネガティブな状況や感情を恐れて、
自分がわからなくなる、
自分を守ることができなくなる、
被害者的な気持ちになる、
そっちだったんだ、ということでした。
それが分かってから、逆に私は自分の楽しみで人をサポートする、が本当に自分を豊かで幸せな気持ちにさせる、と気づきました。
人の喜びが私の喜びであり、
人の幸せが私の幸せ。
人の喜びが私の苦痛であり、
人の幸せが私の不幸せ、
後者になってしまった場合、結局のところ、苦痛と不幸せな様子の私に気づいたら、相手の喜びも幸せも、一瞬で消えうせ、居心地が悪くなるかもしれません。
関係性もギクシャクするかもしれません。
なにより、私が苦痛と不幸せならば、それはやらない方がいい、ということです。
なぜなら、私たちが幸せになることを神さまは喜んでくださる。
苦痛と不幸せでいることを神さまが喜ぶとは到底思えません。
私は「奇跡のコース」の学習者ですが、学ぶほどに、どれほど神さまは私たちに幸せになってほしいと願っているか、と涙が出ます。
そして、タブーをするなかで私にとって大きな気づきだったのは、
テキトーに話しを聞く
でした。
私は今まで、真剣に家族の話しを聞いては共依存的になり、相手の問題を自分の問題のように引き受けてしまうところがありました。
が、テキトーに聞くと、あら不思議。
ふーん、
へえー、
そうなんだー、
大変だねー、
テキトーに相槌を打ち、テキトーに聞いていると、自分事に思えないので、相手が壁打ちしているのをただ観てる、みたいに聞けて、余分に人の問題を背負うことがなくなってきました。
人の話し、特に家族の様子をみたり、話しを聞いたりしていて、のめり込みやすい、境界線が曖昧になりやすい方は、
テキトーに聞く、
タブーをしてみる、
をすることをお勧めします(笑)
何か今までと違うやり方、何か違う世界があることに気づくかもしれません。
あらゆる人が幸せに日々を過ごせますように。
お読みいただきありがとうございます。