腹が立つときは、被害者のメガネをかけて世界を観ているときだった〜自我から聖霊にバトンタッチしていく〜
昨日、こちらの記事を書きました。
こちらを書いてから、今私が学んでいる『奇跡のコース』の学びに参加していたとき、
今日は朝、腹が立って夫に怒った、と言う話しをシェアさせていただきました。
主催者の方が聞いていたときに、
「それ、腹が立つことかなあ??」
と不思議そうに話してくださいました。
ええっー?!
もしかして、夫の言葉っていい意味で言っているの??
聞いてくださっている方たちも、
みんな優しい笑顔でニコニコと笑ってる。
「微笑ましい、と思って聞いてました(笑)」
えー!?
えー?!
もしかして、私が被害者のメガネをかけているだけだった?!
私が被害者のポジションで夫の話しを聞いていると、
「私の悪口を他の人と話していて、それをわざわざまた私に知らせるなんて、ひどい!!」
となります。
が、もっとスペースがあり堂々とした私で話しを聞いていたら、夫の
「あなたきついって。みんなが怖がっているよ(笑)」
のなかに、あなたはしっかりしている、それは誇らしいことと、とれるんだと初めて気づきました。
昨夜、早速夫が帰宅してから、私がきつい、とか厳しい、と言うのは悪い意味ではなかったの?と聞いてみたならば、
「そうだよ。
それだけあなた賢いから、見透かされているようで怖いって言っている、ということ。
あなたにリスペクトの気持ちもあって言ってるんだよ。」
晴天の霹靂。
ネガティブワードのなかに、ポジティブな側面もあることを感じ取れない私は、いかに被害者として生きてきて、ネガティブワード=非難された、悪口言われた、と即過剰反応していたか、に気がつきました。
となると今までも一般的にはネガティブワードだけれど、リスペクトの意味も含まれている、というようなことを、私は見落としてきているんじゃないか?とハッとしました。
善か悪か、白か黒かではなく、両方いい感じでも悪い感じでもいろんな意味を包括している言葉や事象っていくらでもある。
世の中ってそんなパッキリしたものは少なくて、そんなもんばかりなんじゃない??と思ったら長い間の私の生きづらさの正体は、こういうことだったんだろう、と安堵のような、虚しさのような何とも言えない気持ちになりました。
『奇跡のコース』の本のなかで、
私たちは「平安を選びたくない」から「平安」を選べていない、というような言葉がありました。
まさに、私は自分の被害者メガネをかけた狭い視界で、私のメガネに映るものは正しい!とばかりに夫を責め立てていたとき、
自分の正しさを選択し、「平安」を選択していません。
でも、いつも「平安」を私が選択していたら、私がかけているメガネに映るものからは正しく観えないものを、まあその私の自我なんて大してもんじゃないから気にしなくてもいいや、と脇に置いているのだと思います。
夫が楽しそうに得意気に話す話しを、私もただリラックスして楽しみながら聞いていられるのだろう、と感じます。
私の自我がそれを邪魔していました。
「平安」を選ぶとき、自我はいらないのでしょう。
長い間恐れでいっぱいで、頑張って緊張して私を守ろうとしてきた自我に、
今まで長い間本当にありがとう。
ご苦労さまでした。
あなたが頑張って私を守らなくても大丈夫。
私は傷つかないし、これからは聖霊に守ってもらうから。
自我から聖霊にバトンタッチね。
本当に今までありがとう。
そう言ってお礼を言ってさよならし、私の在り方を変えていきたい。
今回のこの大切な気づきが、どなたかをものヒントになればとても嬉しいです。
お読みいただきありがとうございます。