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抽象度が上がるほどに、神の世界に近づいていく。

最近、私のなかで大きな変化を感じていて、でもまとまらないうち、noteの更新が疎かになっていました。


変化を簡単に言うと、

私の抽象度が以前より上がってきた

ということです。


ほんのちょっと前の私は、ネガティブな言葉、指摘を人から言われたりするたび、傷ついたり引きずっていました。


が、今学びをしているなかで、抽象度をあげていくということをしていたので、ネガティブに思えた出来事を、抽象度をあげて観てみたら、全然私が傷ついたり引きずる必要はない、ということに気がつきました。



抽象度が低いところにいた自分ヤバい(笑)と今や思うくらい、相手の発する言葉は相手のもので、本当は私の存在に何の傷も与えていない。


が、私は境界線が薄く、何でも人に同調しやすいところがあったので、入れなくていい、取り込まなくてもいい人のネガティブな想念まで、自分の中に取り入れてしまう、それをゆるしてしまっていたのだ、と気づきました。

でも、私の抽象度をいつもあげていれば、そういう事故は起こらなくなるだろう、と感じています。

大体事故に巻き込まれるときは、こちらの抽象度も低くなっているのだろう、と感じます。 


視野が狭い、
自我が強い、
体調が悪い、
焦っている、
余裕がない、


こんな状態のときは、似たような波長と交わり巻き込まれやすい。


いかに自分を緩ませスペースをつくり、抽象度が高い自分でいられるか。

同じ物事が起きても、緩んだスペースのある自分でいるときは、気にならない、大したことのない擦り傷程度のことが、そうでないときは大打撃に感じてしまったりします。


そして最近、打撃は悪いことではないと思うようになりました。


なぜなら打撃がなければ人は成長しない。


今私は筋トレをしにジムに通っていますが、筋肉は打撃を与えて成長します。


何もしなければ筋肉は衰えます。


心も打撃を与えられてはじめて成長し、自分の抽象度が高くなるほどに、物事の捉え方が広がるので段々楽になってきます。


それによりぐるぐる思考が減るので、時間が短縮され、自由な思考になりやすい。


私は長い間、同じところをぐるぐる思考で彷徨っていました。


それは簡単にいうと、抽象度の低い世界にいたからです。


抽象度を上げて物事を見ていったら、やりたいこと、やれることが少しずつ観えていきました。


これは今学んでいる「奇跡のコース」の学びともリンクする、と感じています。


自我を選択するのではなく、聖霊の助けを選択するということは、抽象度を上げる、高くしていることなのだ、と。


神というのは高いところ、大いなるものは広くて大きい、というイメージがあります。


それはそのまま抽象度の高い世界なのだろう、と感じます。


そこは善悪、ジャッジのない、不変で平安な愛の世界。


そんな世界に少しずつでも近づきたい!


私のこの気づきがどなかたの何かのヒントになれば嬉しいです。


お読みいただきありがとうございます。

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