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自分が見たいように世界をみている。
私は奇跡のコースを学んでいますが、『奇跡の道』の本を読んでいると、
「奇跡のコース」(ACIM)とは
これは、奇跡についてのコースです。
これは、必須のコースです。
あなたに任されているのは、コースを受ける時をいつにするかということだけです。
「奇跡のコース」はこのように始まります。
ニューヨーク、コロンビア大学臨床心理学教授ヘレン・シャックマンがこの内なる声を聞き、書き取りを始めたのは1965年10月21日のことでした。
書き取りはじつに7年もの間続けられ、「テキスト」「ワークブック」「教師の手引き」の三部からなる大著となって、1976年に初版が出版されました。
さらに「心理(精神)療法」「祈りの歌」の二部からなる付録が書き取られ、2010年の英語版の新版「奇跡のコース」はその付録を追加した四部で構成されています。
「奇跡のコース」は真の自己を生きるための完全なコースです。
テキストを読んで“奇跡の”思考体系を理解すると同時に、365のレッスンからなっているワークブックを通して、具体的にその思考を当てはめていく心の訓練が不可欠です。
自分は自分のみている世界の被害者ではない。
自分のみている世界は自分がでっち上げた。
などの言葉が出てきます。
それをヨガをしている方に話したら、
「私は被害者ではない。」と唱えたところで身体はついてこないから変わらない、と言っていました。
ヨガはまず身体からのアプローチで、心もそして現実も変えていくという感じなので、そう言うのは理解ができます。
が、実際には
「自分は自分のみている世界の被害者ではない」「自分のみている世界は自分はでっち上げた」
などの言葉を一課、一課、毎日一定の時間を使い、ワーク通りに訓練していくことで、自我の扱いに長けていき、内的変化を起こしている人がたくさんいます。
そして、心に平安を迎え入れています。
だからこそ、これだけ全世界で訳され、世界中でたくさんの人が今でも学んでいるのだと思います。
何が言いたいのかというと、それほど私たちは
自分の見たいように世界をみている。
だから、私たちの自我の言い分はあてにならない、ということです。
このことを気づかせるために、奇跡の本は言語化され、あらゆる言い回しで表現されていると感じます。
だから自我の言い分ばかりを聞いていると、分離を生み出してしまう、なぜならそれこそが自我だから、というように。
そしてそれをなくすため、
罪の思いをなくし、
ゆるしなさい、
と何度も何度もこちらが理解するまで言い尽くそうとしてくれている本、と感じます。
奇跡のコースでは、投影という概念が重要になっています。
投影というのは、
自分にあるものが
相手にもあると思うこと。
例えば、あの人のあそこが気に入らない、とイライラしているとき、同じものが自分のなかにあるからこそイライラしている、という感じです。
でも、それが自分のなかにもある、とは絶対に受け入れたくない、と否認しているからこそ、他者に投影して他者を攻撃するという行動を取ります。
そうすると、自分のなかにはない、自分のものでない、相手だけのものだ、とすることで、ひとたびはスッキリします。
が、真実は自分のなかにあるので、他者で似たような人を見るたび、攻撃の対象になります。
人を攻撃すればするほど、傷ついている、ということです。
が、それは私のなかにあるものかもしれないと思い、自分のなかの真実を観ようとしていくほどに、内側からじわじわと安らぎがうまれ、癒されていきます。
そうした聖霊を選択し、人を、自分を、ゆるして安らいで生きるか、自我を選択し、人を(自分を)攻撃して生きるか、
あなたは聖霊と自我のどちらを選択して生きますか?
と問うています。
聖霊を選択すると決めていても、無意識にあっさりと自我を選択していたと気づいたとき、私は自分の自我の強力さに慄きます。
そのたびに、
私を導いてください。
私を癒してください。
と祈ります。
今、私がすることは何でしょうか?と聖霊に問いながら生活できることは、本当に幸せです。
揺らがない安心、平安です。
私たちは、自分が見たいように世界をみている。
この視点を忘れずに、聖霊とともに平安で過ごしたい。
また、平安な気持ちで誰もが過ごせますようにと心から祈ります。
お読みいただきありがとうございます。