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罪はなかった、ゆるされていた、私は何に苦しんでいたのだろうか?
今日の朝、「私に罪はなかった」という言葉が降りてきました。
それは今日は父のお誕生日だったので、父に「お誕生日おめでとう。」という電話を実家にかけ、兄弟から断絶されていることをいまだ燻っている私に、父と母が私にかけた言葉からでした。
父「他人は変えられないんだから、気にしたってしょうがないだろう。彼らはそういう人たちなんだ、自分は関係ない、それでいいじゃないか?
お父さんは、自分が死んでからお葬式にきてくれればいい、いや来なくてもいいよ。お父さんも会いたくないから。」
母「あなたは何か自分が背負い込み過ぎているんじゃない?怒っているのは彼らの問題なんだから、あなたは別に気にしないで、勝手に怒らせておけばいいじゃない。」
今までも何度か似たような言葉を言われてきたような気がする。
が、今回、その言葉を聞いて感じたのは、
「私に罪はなかったんだ!!」
という、拍子抜けしたような、私はゆるされていたんだ、という体感でした。
2年前に1組の兄夫婦を怒らせてから、私が感じていたのは、私が無意識に持っていたのは、私はなんと罪深い人間か、ということでした。
表面的には、私だってこんな風にところ構わず激怒してみたり、やり返せでもしたらどんなに気持ちいいことかと思ってみたり、打撃を受けて哀しんだり、嘆いたりしていても、通底音のように流れていたのは、私は何かよくない、欠けた人間なんだ、罪深い人間なんだ、というものでした。
私は自分が思っているより人にズケズケ物を言っているのかもしれない、空気が読めないところがあるのかもしれない、与え過ぎるところ、やり過ぎるところがあって相手の負担になっていたのかもしれない。
相手を攻撃し返したい、という怒りの気持ちのあとに、あれがよくなかったのか?これがよくなかったのか?考えるほどに私が苦しめられていたのは、私は人を傷つけてしまう、欠けた人間なんだ、という気持ちでした。
実際何に相手が傷ついたか分かればまだいいのですが、理由がわからないから余計に苦しい。
本当は、どれこれも無意味なエゴの考え。
エゴがごちゃごちゃごちゃごちゃどうでもいいことを言っている、と頭のどこかではわかっていても、現実に目の前で起こってリアリティがあることは、そっちが拡大して見えてしまう。
このことによって、私はまだ自分が欠けている人間だ、私は罪深い人間だ、という思考に支配されていた、ということに嫌でも気付かされました。
が、「奇跡のコース」を学んでから、毎日毎日やっていることは、
私を癒してください。
みんなを癒してください。
私に奇跡をみせてください。
私を助けてください。
とホーリースピリットに祈ることでした。
が、なぜかそれだけでも今、目の前の夫にも、置かれている環境にも心から感謝できるし、夫側の家族関係はどんどんよくなるし、私の日々は素敵な人たちとの温かい交流が続いています。
このnoteで知り合う方たちも、素敵な人たちばかりです。
が、私の兄弟関係はいまだ膠着していて、兄弟とは断絶したままで、そういう状態で実家に行って、また私が何かやるごとに文句を言われるのかと思うと行きたいとも思えない。
そう、私は人から文句を言われる、両親、兄から文句を言われることに打撃を受けていました。
小さい頃の私は、両親だけでなく、兄を(神のように、)いうことを聞かなければ、見捨てられる、と思っていたから。
私は家族から嫌われる、怒らせることを恐れていました。
小さな何もできなかった頃の私は、家族に見捨てられたら生きていけなかったから。
あー、本当になんて恐れながらビクビク生きてきたのか。
小さな頃の私を、大丈夫だよ、怖がらなくてもよかったんだよ、と何度でもハグしたくなります。
が、大人になって成長した今の私には、確固たる自分がいます。
揺るがない、神聖な私、が内側にいます。
本当は誰のなかにもいます。
でも、その神聖な私、を忘れて全く思い出せないとき、人は人を攻撃したり、怒ったりして、あなたと私は違う!私はあなたのような人間ではない!と拒絶します。
拒絶するほどに、本当はその人は傷ついていて、実際には誰よりも愛を求めている。
私もまだ未熟ですから、わかっていてもまた目の前で、兄夫婦から激怒されたら冷静でいられる自信はありません。
ですが、
「この人が本当は完璧な神の子で、神聖な人だということを私に思い出せてください!!」
と必死に祈ることはできます。
そういう手段を持っています。
これはものすごい心強いです。
私は本当は罪はないし、ゆるされていた、
と体感できた今日、彼らも罪はないし、ゆるされている、と心から思えるように、ホーリースピリットに祈りたいと思います。
エゴの私だけのチカラでは、とても成し遂げられないから。
あと、私は今、呼吸を意識的にすること、朝、晩の瞑想の習慣、祈りの習慣も私の心を助けてくれています。
いきなり大きなことをしようとするよりも、小さな小さな習慣が、私を確実に助けてくれています。
生きる、よりよく生きるとはこういう、小さな、小さな習慣を気負わず、でも揺るがず続けていくことなのだろう、と感じています。
私のこの小さな個人的な体験が、どなたかの何かのヒントになると嬉しいです。
あなたの平安を心から祈っています。
お読みいただきありがとうございます。