
毎日が穏やかで心が軽く、だんだん楽しくなってきた。
夏にどーんと落ちて、重くて身体も動かないところから浮上し、最近毎日がなんだか楽しくなってきていました。
何かを達成したから、とか叶えたからとかではなく、日々がただ愛で満たされている、と感じます。
9月にヒーリングを伝授し、先週祈り合わせのイベントがあって、みんなのチカラが合わさった大きな光のエネルギーの中にいたあと、自分の中の光のエネルギーが動いてきた、を感じています。
この光のヒーリングを他の人にしてあげたい、と自分からいつのまにか動くようになっていました。
ただ愛から動くのと、承認欲求のために動くのとでは身体と心の軽さが違う、を体感しています。
かつての私は「自分はダメだから」という恥から、承認欲求から行動していたので、苦しくなっていたのだなあ、とつくづく思います。
私の中の小さな女の子が、
「私だって、できるもん!」と、
必死で年上のお兄ちゃんや大人たちに認められるために頑張っていた、というところでしょうか?
でも、無償の愛ではないから身体も心も重くなり、自滅していた、という感じです。
認められたい!がいかに、かつての私の原動力になっていたかを感じます。
類は友を呼ぶ。
ですから、私と夫は外側に出る表現の仕方は真逆だけれど、根底は、自分をバカにしてきた、親や兄弟を見返したい!という気持ちが、夫だけでなく、私にもあったのだろうな、と感じています。
夫は分かりやすくそれがあり、見返したい!と頑張ってきた、と素直に言語化していました。
いや、男性の方が分かりやすく、外側に地位や権力、財力を求める方が一定数見受けられる感じがします。
外側に夢中になっていれば内側を観る必要がない。
でも私は違う、内側の現実も観てきた、と奢っている私がいました。
が、私は内側を観るばかりの自我中毒(勝手に私が作った造語です)になり、そこに奢りがあったからこそ、逆に現実の行動をストップさせていた=成長をストップさせてしまっていた、と感じます。
自分の中に奢りなど、愛から離れたものがあるとき、物事はうまくいかなくなり、宇宙は何かサインを出して教えてくれているんだな、と感じます。
自分だけを観ているとそのようなことに気づかず、自分しか観えないので「私は正しい」と正当化できますが、他人にヒーリングさせていただくと、そういう自分に気づきます。
他人の中に同じものを持つ自分がいて、自分の中に、同じものを持つ他人がいるので、他人と関わると、いろんなことが俯瞰して観えてきます。
他人はみな師匠
という言葉を聞いたことがありますが、
まさに!!
とヒーリングを贈らせていただくようになり、ますます腑に落ちています。
自分に嫌なことをしてきた人は、ヒール役(heel)をかって出てくれたんだ、という言葉を内観療法をしているとき、何度となく聞きましたが、なかなかそんな風に思えない私がいました。
でも今やっと、本当にそういう人がいるから、宇宙の法則を観せてもらえる、理解できると感じています。
すべての物事は、自分の成長のために用意されていて、何ひとつ無駄なことはないのだ、とまたしても確信しているこの頃です。
物事が分かってくると、心が軽く、なんてことはない毎日が穏やかで楽しく感じます。
競争ではなく共創、になると毎日が穏やかで幸せだ、と感じます。
この私の気づきが、どなたかの幸せのためのヒントになると嬉しいです。
お読みいただき、ありがとうございます。