癒され赦すほどに、人に愛されて人を愛せる。
昨日は敬老の日も兼ねて夫婦で実家に行き、私の両親と一緒に食事をしてきました。
元々お昼ごろに着く予定で約束していましたが、父が見当たりません。
用事から帰宅した母が、
「お昼は居てね、と言っておいたのに。
まあ、そう遠くには行かれないからそのうち帰ってくるとは思うけれど。」
と困りながら心配そうな顔。
父は認知症が進んできたので、少し遠くまで散歩に行くと、自分がどこにいるのか、分からなくなり、帰ってこれなくなることがありました。
なので、実家は海に近いため、まっすぐただ海に行って帰ってくる、というのを毎日1日2回繰り返しているそうですが、私たちと約束していた時間に行ったこと(帰って来れなくなったら、私たちと一緒にお昼どころではなくなるので)母は家に居てくださいね、と頼んで言ったのに、と母は溢します。
しばらく父をみんなで待っていたら
「暑い!暑い!」
と大汗を流して帰ってくる父。
「こんな暑い時間に散歩に行くなんて!」
と、ぷりぷり言う母。
「1日2回行くと決めているんだ、何がいけない!」
と言って、父はゆっくソファで休みはじめます。
これからみんなで外に食べに出かけるよ、というと、
「こんなに暑いんだから、休まなきゃ動けないだろう!」と言い、結果、かなり長い時間みんなを待たせてから、やっとお昼を外に食べに行かれました。
こう書くとなんてことはないし、実際、夫も少し苦笑いながら待っていてくれました。
が、かつて私は、融通のきかない父、自分のやり方しか受け入れない父、周囲に合わせることができない父、母を心配ばかりさせる父、に真正面からぶつかり、周囲の家族が呆れるくらい私は父とガチンコ勝負をしていた時期がありました。
今思えば、私は自分が思っている以上に、負けず嫌いであり気が強く、正しいことを正しい(他の人のことも考えて動いて!)と主張せずにはいられない、私こそ視野が狭く、赦すことができない人でした。
要は父みたいな人はけしからん!と言うほどに、私は父とそっくりだったわけです。
が、いろいろと学び、自分を俯瞰して観れるようになってくると、私は父と全く同じ次元にいたんだ、と分かるようになりました。
父と同じ次元で共振共鳴していればこそ、父と争っていて、当然父も自分に抵抗してくる私に当たっていました。
が、いつの頃からかやっと私の視野が広くなり、父をただ赦して受け入れるようになっていたら、父は私を大事な大事な可愛いい1人娘だ、と誰の前でも私を褒め、愛情を分かりやすく表現するようになりました。
そう、親であってもみんなが成熟した立派な大人ではないという当たり前の事実を受け入れ、自分も未熟であった事実を当たり前に受け入れていたら、すべてが好循環になっていました。
親であろうと、どんな人もみんな自分の話しを聞いて欲しいし理解してほしい。
自分を受け入れてほしいし、赦してほしい。
そしてそのことを自分に落とし込み、自分に適用することと他人に適用することはイコールなのだと思います。
かつて私は、一生私は父を受け入れられない、と思っていた時期がありました。
今はどんな父も、この父親が親として、未熟さを抱えながら精一杯私を育ててくれたのだ、と思うと、そこにいいも悪いもなくて、ただそのしてくれた事実も、良くなかった部分も丸ごと受け入れ感謝しています。
かつて父から愛されていないと思っていたからこそ、愛するとはどういうことを懸命に知ろう分かろうと模索し、分かるようになっていったという今までの私のプロセスは、私の人生にとってかけがえのない財産です。
いいも悪いもなく、ただ事実を受け入れるということができるようになると、物事はもっと思っていたよりシンプルだったんだと気づきます。
そして、それとは別に自分がかつて父に認めてもらえなかった、哀しかった、悔しかった、という痛みは痛みとして、自分で自分を慰め癒してきました。
さらに今は私のチカラでなくて、聖霊に癒してもらえるという手段を手に入れ、もっと楽になりました。
大いなるものに繋がっているという感覚は、私も、父も、苦手なあの人もみんな同じでみんなひとつであり、みんなが同じ神の子であるということを思い出させてくれます。
父と会うたび、自分が癒されてきているということを実感します。
それは喜びであり、感謝です。
そしてまだある痛みを、ひとつひとつこれからも癒していきたいと希望を持って祈ります。
あなたの傷みも癒されますように。
私が癒されますように。
みんなが癒されますように。
毎日心から祈っています。
お読みいただきありがとうございます。
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