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癒されるとは、与えられていたことを思い出していく奇跡の旅。

今日、人に対して嫌だなと思ったことを、しっかり感じてみました。

私の自我の声が大きいと感じたので、静かな時間を取ってみました。

なんで私はその現象を嫌だなと感じたのか。

私の自我は、

もっと私を大切にしてほしい、
私を尊重してほしい、

と訴えていました。

暗闇とは光が欠如していることだが、それと同様に罪とは愛が欠如していることである。

暗闇自体にはそれだけにあるといえる特性など何もない。

それは「欠乏」を信じるという一例であり、この信念からはただ誤りが生じるだけである。

真理はつねに満ちあふれている。


あらゆるものを持っていると知覚し、承認する者たちは何をも必要としない。

贖罪の目的はあらゆるものをあなたに戻すこと、もっと正確にいえば、あらゆるものをあなたが自覚できるようにすることだ。

あなたは創造されたときに、だれもがそうであったように、あらゆるものを与えられたのである。

『奇跡の道 兄イエズスの教え』

私は今「奇跡のコース」(本)を読み学んでいますが、今日はこの文章が目に入留まりました。

「私は足りない」

この信念が私を誤らせ、人に対して嫌な気持ちを抱いたり、自分を嫌な気持ちにさせたりしていた、と感じました。

時間とエネルギーをかけていろいろなことを学んできても、私はいつも「欠乏感」に目がいきました。

あなたは創造されたときに、だれもがそうであったように、あらゆるものを与えられたのである。


とあるように、本当はあらゆるものを与えられたのに、私は与えられていない!と自我が感じていれば、満たされない気持ちに終わりはありません。


私はずっと私に足りないもの、埋まるものを外側に探し求め、獲得しようと四苦八苦してきました。


が、今感じるのは、すでにあらゆるものを与えられていた、ということを思い出していくプロセスが必要だったと感じています。


聖霊に委ねると奇跡を体験します。


愛はあったのに、みえなかった、みえなくしていた、盲目にしていたのは、常に自我を選択していたからでした。



日々聖霊に委ねて生活することは、祈りの生活です。


聖霊に委ねると決め、奇跡をみていくのは、外側にばかり目が向いている状態だと難しいです。


簡単に自我が手綱を握ってしまうから。


奇跡のコースの学び初心者マークの私は、以前より静かな時間を意識的に取り、生活をするようにしています。


そうすると、自我にハマっていても修正していくことができるから。


静かな時間を取ることで、心地よくなり、生活の質が、人生の質が上がっている、と感じます。


私は本当の心地よさ、が長い間わからないできたのだと思います。


この私の微細な変化と気づきが、どなたかの微細な変化と気づきになり、この世界の愛が増えれば嬉しいです。


お読みいただきありがとうございます。

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