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恐れを取り消し、愛を選択する。
先月、私は夫にとても不満を持っていた時期がありました。
が、よくよく内観して観ていけば、まるで自作自演だった!!と気づきました。
この世界は自分が見たいように見ている
のでした。
以前こちらの記事でも書きました。
私の心のなかには、
「私は愛されるに値しない」
「私は欠けている」
「何か頑張っていないと許されない」
そんな罪の意識が奥底にあって、その傷を触発されるような現象(夫の言動、行動が愛からに見えないと感じられたとき)に遭遇すると、それきた!とばかりに私は夫を裁いていました。
夫のあの発言はひどい!
夫のあの行動はひどい!
と思っていました。
それは夫の私に対するものも、他者に対するものも、みんな同じように私は反応(リアクション)をしていました。
が、その反応こそが私が傷ついた心で観るからの反応であって、私がもう少し癒された心で同じ現象を見たならば、
夫は何だか苦しくて大変そうだ、
夫の心が癒されますように、
そして、どんな夫を観ても私が反応(リアクション)ではなく、愛から動ける(アクション)ように導いてください、
と静かに願い祈るのでしょう。
私は「奇跡のコース」を学んでいます。
学んでいくプロセスで、他者に対して恐れからの言葉(自我の言葉、愛からでない言葉)を聞くとき、以前より私は一層不快に感じるようになっていました。
私たちは、本来みなひとつで、すべての人を心から愛したい。
誰かを蔑むような言葉を聞くと、その私の思いが傷つけられるような感覚になりました。
こうして小さな頃から私の愛の純粋な思いを傷つけられてきた!というような怒りを感じました。
子どもの頃、みんな大ー好き!という感覚が誰しも多かったのではないかと思います。
けれど、大人になるプロセスで、どこかで傷つく体験をしていくうち、人を区分けしたり、ジャッジしたり、切り離したりなど、愛からではなく、無意識に恐れからの行動や言動を、程度の差こそあれ誰もがするようになっています。
その傷が私自身にあるからこそ、
「あなたのその発言はよくない!」と裁いていて、それこそが私の恐れからの言葉でした。
ミイラとりがミイラになる、ではありませんが、恐れの発言はやめて!と私は恐れから言っていました。
やるべきことは、
聖霊に私を癒してください、
と祈ることでした。
どんな言葉を聞いても、穏やかに夫を完全な愛の人と見れるよう、私を助けてください。
そして、夫とともに奇跡を体験したいです。
そのような言葉で祈ることでした。
奇跡とは、自我からではなく聖霊に委ねて愛から動いた(アクション)ときに観ていくことができる、心のなかの現象です。
私が傷ついた心で見ればこそ、目には目を、歯には歯をかのように、愛でなく怒り(自我に乗っとられて)で裁いていました。
これは夫だけでなく、当然他の人にもやってきたと感じたとき、自分で自分を苦しめていた、苦しみのストーリーが観えてきました。
その恐れの思いを取り消します。
その思いをゆるします。
そう心で祈ると、私の身体から大きなため息が出ました。
私はその恐れの思いのせいで、どれほど緊張してきたことか、身体を強張らせてきたかと思いました。
この訓練を積めば積むほど、私は年老いていくほどに、身体は老いても、緩み安らぎのある毎日になることでしょう。
練習をたくさんたくさん積んで、有りえないほどの愛に気づく世界をみたい、と思います。
あなたの毎日も、愛に気づく日々であるようお祈りします。
お読みいただきありがとうございます。