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傷ついたと感じるとき、まず点検するのは自分自身〜「正しさ」よりも心の平安を〜

私はずっと良くも悪くも反応しやすい、らしい、と自分でも感じながら生きてきました。


それは悪いことばかりでなく、良く気がついてくれた!と人から有り難がれることも結構あったので、良い点もあるのだからと、本気でなんとかしようとしないできたのかもしれません。


それが過剰反応である、らしい(笑)ということを学びのなかで感じるうちに何とかした方がいいと思うようになりました。

が、私のなかからトラウマが完全に消えさらないことにはどうしようもない、とも思っていました。


何せ反応は自動反応ですから、止めることが難しいとなす術を見つけられなかった、という方が正しいかもしれません。


わかっちゃいるけどやめられない、と。


が、スピリチュアルヨガセラピーを教えてくださる先生、奇跡のコースの主催者の方のわかりやすい教えのなかで、トラウマがあろうがなかろうが、過剰に反応しなくなることはできる、という確信を持つようになりました。


例えば自分が傷ついた!と感じたとき、全く別の見方でその事象を観ていく、ということはできます。


ではなぜ長い間出来なかったのか?

それほど本当に傷ついてきた痛みがあり、もう傷つきたくない、もう痛みを感じたくないという無意識の自我が懸命に自分を守ろうとしていたのでしょう。


客観的に観ることが難しいくらい、自我の力は強力であり、実際傷ついてきた人ほど、無意識に自分を防衛する力は強いです。

もうそういう被害者視点で世界を観ることが日常になり、執われてしまっているからです。


誰しも自分を観て在り方を変えていくことは大変なことですが、他人を観ることはいとも簡単です(笑)


わかりやすく例をだしてみます。


私の身内で、すぐに怒る人がいました。


こちらには理由はさっぱりわからないけれど、何か私が不快にさせたらしい、ということだけは様子から分かります。


私だけでなく、他の家族のことでもその身内は怒ります。

何が起きているのか?

やはり、その人の心の内側がとても傷ついたままであり、いつも平安でない状態なので、その人のフィルターを通すと、


また傷つけられた!
この世は安心できず敵だらけ!となります。


が他の人が全く同じ言葉、全く同じ現象のなかに居ても、何も思わなかったり、ただ笑ってリラックスして楽しんでその場にいるかもしれません。


自分自身は棚に上げ(笑)、私はなぜあの身内はあんなに怒りやすいのだろう?と不可思議に思っていました。


が、事の大小は違えど、

私も同じことをしていた!!

と気がつきました。

私は傷つきやすい、とは感じていたので、人は傷つけたくない、と思って生きてきました。

が、完璧に他者を傷つけない、なんてことは不可能で、私自身も自覚がないまま知らないうちに、たくさん人を傷つけたり、迷惑をかけて生きてきています。


にも関わらず、自分より気がつかない(自我がそう判断しているだけ(笑))人の不用意な言葉に自分が傷つくと、傷つけられた!と被害者のポジションに簡単に入っていました。


事実は、私が傷つくことを選択している、です。


同じ言葉、事象のなかにいてもふーん、この人はこういう人なんだ、と観ているだけなことも選択できます。


要は、実際私は幼少期、愛されていないと両親に感じていて(そう私が感じ取っていて)、若い両親も未熟ですから、自分たちもその上の親から不用意な言葉をかけられてきているので、それがいいか悪いかもわからず、自己肯定感を削いでしまう言葉を日常使います。


そこで傷ついてきた私は=私の自我は傷つくことに敏感になり警戒し、私を守ろうとする力が無意識に大きくなって、それこそが視野を狭くすることであり、過緊張を創り出していました。


愛を創り出すのではなく、
恐れを創り出していた
のです。


今、私は奇跡のコースを学ぶなか、


自分の正しさより、心の平安を選択する

と決めました。


またヨガや瞑想、その哲学などの学びのなかで、心や体が緩ると、


客観的な視点で世界を観ていくこと


が楽になることを体感しています。


またヨガだけでなく、ジムで筋トレをしていますが、身体を鍛え筋肉がついていくことも客観的に自分を観ていく、にひと役かっていると感じます。



筋肉がなく疲れやすかったときは、一層自分に執われやすかっただろう、と。


自分の正しさより
心の平安を選択することは、


自分を無くす、
過去を捨てる、


という感覚です。


自分(自我)に拘り、過去の見方で世界を観ていると、過去に培った思い込みのフィルターが強いです。


この自分を無くす、過去を捨てる、が実践できるほどに、誰とどこに居ても平安な愛の世界になるのでしょう。


が、この自我を脇に置いておくのは、容易なことではありません。


だから私は聖霊に祈り、助けてもらいます。



自分の力を使わず、明け渡す方が質の良い豊かな人生になる、ということは聖霊に委ねて祈るようになってから確信しています。


自我は想像の範囲内のことしか叶えてくれませんが、聖霊を選択すると驚く方へ導いてくれ、それは私が予想していたよりはるかに豊かな世界です。

この私の気づきがどなかのヒントになってくださればなお嬉しいです。

お読みいただきありがとうございます。

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