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MyTH 1:3

記事を十分に書かないとアカウントが見つからないらしいというので、今回は、AI会社でありながら、このnoteの記事を人間が書き続けている理由についてでも書こうと思う。

文は人なり。

ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン

「まだ」勝てる領域:私であるということ

文章には人が出る。

AIに生成させた文章でも、人をある程度出すことは可能だし、MyTH株式会社はそれをやっているわけだが、AIが編み出すペルソナは、どこまで行っても、よくて写実主義絵画のそれにとどまり続ける。

どれほどリアルでも、ブレンドで生み出した人工美女は、結局のところ本物ではない。
見分けがつかなくなるところまでは行けるかもしれないが…。

だから、「まだ」勝てる。

いつかは、そんな人の機微すらも完全に再現できるのかもしれないし、そうなると世界各地で、セカイ系のようなセリフを吐く人が出てくるのかもしれない。

ようやく会えたな、ユイ。

碇ゲンドウ

もしかしたら、私自身、それを望んでいるのかもしれない(だが、それはオリジナルというより、多分にハルシネーションの具現化でありうる。だから、私が生み出すそれは、オリジナルとは別物という自覚を持ちながらの戦いとなる)。

そうしたことを追い求め続けるのであればこそ、「まだ」勝てる間は、核のは人間である私自身であることが望ましいと思っている。

AIは、確かに文章生成のスピードでは人間よりも高速だし、その質も、知的側面に限って言うなら、総合力勝負で勝てる人間は最早いない領域に達しつつある。

それでも。

私を私たらしめるものを食らいつくさない限り、AIが私自身らしさという一点において、私に勝つことはない。

私がどんなことを考え、どんな言葉をどこから引用し、どこでどんな画像を挿入するのか。

そういう点において、十分に私を食らいつくし、私を予測できるAIでなければ、きっとどこかで外す。

やがて互角となり、そこからの歩みで分岐していくような、私の分身。

その領域に至らなければ、それはMyTHの目指すAIには足りていない。

AIによる代筆は一部で実験しているが、結局それをやっている領域でも、加筆や修正なしで出すほど、私だと言える文章はまだ出せていない。

だからこそ、「まだ」私は私であるという一点において、AIに勝ち続けることができる。

私以上に私らしい?

ただし、その一点の中身を、例えば分野とか表現の特徴とか、定量的に表現できる項目へとブレイクダウンしていったら、恐らくそれらの各個撃破できる領域は、時間の経過とともに逆転されていくだろう。

その個別撃破が完全なものとなった時、「私以上に私らしい」AIが生まれる可能性は確かにある。

しかし、そうでない間は、私の文章は、最後は私の手入れなしには出さない。

そうすることで、私は私自身を知り、AIに私自身を学ばせるデータを作り出していく。

そしてMyTHへ…

More Than Humanに至る、神話を作るというのは、つまるところ、そのような営みの中でしか生まれないのではないかと思っている。

自動でいい、手放していい領域はAIで置き換えていけばよいが、そうでない領域は、人間が手綱を握り続けること。

今回は、そうした営みとして、私が自分で書き続けている理由の話をしてみた。

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