MyTH 1:5
今日の昼は、歌舞伎座で歌舞伎を観劇してきた。
人生では、高校の体験学習以来、10年以上ぶり二度目。
桟敷席で見るのは初めてである。
桟敷に関する教訓
桟敷は半個室になっており、ちょっとした机もある特別席である。
ただ、高いから理想的な席なのかというと、そうでもないように思う。
まず、区画が二人用なので、一人客は相席の可能性がある。
というか、高いからこそ売れるので、ほぼ確実にそうなる。
次に、花道近くの西の桟敷は、花道を役者が駆けるとき、逆光になってまぶしい。
東の桟敷の方が、その点はもしかするとマシかもしれない。
最後に、舞台からそれなりに距離があるため、オペラグラスを買っておけばよかったと思っている。
そんなわけで、最大の教訓は、高い買い物も、結局は使いようで良くも悪くもなる、ということである。
2人で呼び合って区画を取り、まぶしくない東の桟敷を選び、オペラグラスも備えて観劇すれば、恐らく今回よりも価値のある桟敷体験ができる。
これは、昨今のAIツールでも同じである。
使いこなせていないサブスクは、無駄な出費になる。
使いこなす技量があっても、使う機会がないサブスクもまた無駄になる。
いくら良い桟敷体験ができる予約を取っても、予約した歌舞伎の当たり外れに左右される可能性はある。
歌舞伎と産業革命
今回鑑賞した歌舞伎は、以下の三つである。
平家女護島~俊寛~ (近松門左衛門作:1719年)
音菊曽我彩~稚児姿出世始話~ (曽我もの:新作?)
権三と助十 (岡本綺堂作:1926年)
俊寛は、五段ある平家女護島の二段目らしく、近松の浄瑠璃を移植した、江戸時代の歌舞伎。
音菊曽我彩はどうやら子役のデビューなどを祝うために、曽我ものの一幕をセットしたもので、江戸歌舞伎の伝統を継ぐ新作(らしい)。
最後の権三と助十は、大正時代の作品で、江戸町人をメインに据えていると言っても、謡もなく、セリフも随分と口語的な作品。
三作を見ていて思ったのが、産業革命を経験した近代日本と、それ以前の江戸時代の日本では、明らかにテンポが変わったということである。
江戸歌舞伎は、義太夫節にしても、演者のセリフにしても、どこか過剰に説明的で、ちょっとくどい。
そして、全てのテンポが遅い。
現代人であれば、30分くらいで終わらせそうな内容を、1時間ちょっとかけてやっている。
だからこそ、集中しないとどこかへと気が散ってしまう、集中せよ、というギミックなのではないか、と思えてくる。
新作らしい『音菊曽我彩』は、江戸歌舞伎の形式ばっているところは継承しながらも、この点ストーリーのテンポが格段に向上しており、そのミスマッチがどこかしら、消化不十分な感を残す作品であった。
まあ、祝いのための場で、本来であれば曽我物語のクライマックスが後に続くはずの合間の一幕を作ったものであるから、消化不十分に感じる理由の一つは、クライマックスをお預けにされたことにあるのかもしれない。
その点では、現代人にとって最も「楽しみやすい」作品だったのは、最後の『権三と助十』なのではないかと思う。
江戸っ子のべらんめえ口調のテンポの良さもあるが、役者が基本的にあまり形式ばった所作を取らない無駄のない作劇で、口調だけでは説明できないスピードがあった。
これこそ、歌舞伎を「近代化」した試みなのではないか、という印象を抱いた。
少し話を戻すと、テンポは、産業革命以降の歌舞伎作品と、それより前の歌舞伎作品とで、明らかに変わっている。
歌舞伎作品をさらに多く見ていったときに、江戸歌舞伎にもよりハイテンポなものがある可能性は排除しないが、ファクトとしては一度踏み込まず、象徴的な話として考える限りにおいて、この点は興味深いと考えた。
産業革命で生産性が格段に向上したとき、人間は皮肉にもより忙しい生活に身を置くこととなり、その結果としてテンポアップを求められ続けてきた。
その生産性をこなすだけの、人間の処理能力向上が求められたからである。
この現象は、産業革命のたびに生じていると思う。
手工業の時代から、蒸気機関の時代へ。
手工業では遅すぎる。馬もまた遅すぎる。鉄道や蒸気船の時代である。
蒸気機関の時代から、電気と石油の時代へ。
鉄道も蒸気船も遅すぎる。飛行機と自動車の時代の到来である。
電気と石油の時代から、コンピューターの時代へ。
そもそも移動すること自体が遅すぎる。
テレコミュニケーションとシミュレーションの時代。
正確には、テレグラムとテレフォンはそれ以前からあったから、テレビジョンとシミュレーション、といった方がよいかもしれない。
コンピューターの時代から、インターネットの時代へ。
まず個人用コンピューターが普及して、個人で文書などは綺麗に書けて当たり前の時代となり、やがてインターネットが十分に整備され、タイパなどが叫ばれるようになって、倍速再生は当たり前、という時代が到来した。
そして、今回、インターネットの時代から、AIの時代へ。
AI産業革命の真っただ中にいる私は、いずれはこのnoteも手放して「私以上に私らしい」AIに代筆させないと、きっと歌舞伎観劇などしている時間は取れなくなっていくのだろう。
加速競争から抜け出すには
だが、一つだけ、これを反転させる方法がある。
ゼロ除算に近づけること。
求められる出力に対する入力を、徹底的に削減していくこと。
入力ゼロ、完全自動まで至ればそれは一つの完成形だが、少なくとも、期待入力 =(期待出力/実入力当たりの実出力)の成長率を1未満にすること。
簡単のために期待出力や実入力を成長率a, bの指数関数として表現し、実出力を実入力の係数付きべき乗で表せるとみなした場合には、その条件は以下のようになる。
これが意味するところは明白で、b>1に留まるなら実入力にかかる実出力の増幅べき係数αを、a = b^nと表現したときのn+1よりも大きくし、b<1を目指すなら、逆にこの境界値よりもαが小さくなるようにせよ、ということである。
それを、どこまでAIでできるか?やるか?
多分、AI革命の浸透具合を決めるのは、このような逆転にどこまで踏み込めるか、そして同時に、どこからはあえて踏み込まないのか、という線引きだと思う。
AIにモデルを修正された話(追記)
…と書いてから、さすがにα < 1はどこか直感に反しているように思ったので、o1と会話した結果、モデルの修正案を提示してくれた。
技術革新のおかげでγの時間変化の方が効いてくる可能性があるらしい。
恐らく、α < 1はもっと違う条件のモデルであり、実際にはこちらが正解である。
ただ、趣旨としては「入力を減らしつつ期待出力を超えよう」というのが、産業革命からの流れを反転させるためのメッセージであり、これはモデルの修正によらず、変わらない。