「サラバ」を読むと
私は久しぶりに心震える思いで、その本を閉じた。
書きたいという衝動なのか、身体の奥から書きたいと声が響いてくるようだった。それは、私の欲望なのか、それとも一瞬、小説の中の主人公の気持ちに浸ったからなのか、わからなかった。
少なくともその小説には、私の奥底をかき回すだけの力がパワーがあった、ということは確かだった。
著者がそこにそれだけの想いを注ぎ込んでいるってことだろう。作家が読むと、身震いするような本なのではないか、「サラバ」(西加奈子)という作品は。
しかし、いざ、書き始めると、多分、それはヘタをすると、ただの陳腐な愚痴か自慢か、自虐的な趣味か、そう思われ、人目に晒すような代物ではなくなってしまう。それに、私の人生に興味を持つ人なんているのだろうか。50半ばの、人生崖っぷち、というか、もう終わってるみたいな、何もできなかった女の存在価値なんてあるのか?
・・振り返ると、何もできなかったわけじゃないけど。。。
私の人生に興味を持つとしたら、多分私の娘くらいだが、娘ももう二十歳を超えて、私の話はあらあら聞いているから、もうそれ以上知りたくはないかもしれない。試しに聞いてみた。「もし母さんが自叙伝的な小説書いたら読みたい?」と。返事は「まあまあ」だ。
まあまあ、って、それほどでもないってことだよね。
娘が知りたかろうが知りたくなかろうが、私は私に触れていたい。その欲望はしっかりと感じる。私は私でいたい。この言葉でしか表現できないこれは、一体何なのか。それは「サラバ」と同じ感覚だと思う。多分。
残りの人生はどのくらいあるのだろう。
動けて喋れるのはどのくらいの時間があるのだろう。
そして、書き留めていける体力や気力のある時間はどのくらいあるのだろう。
わからない。
でも、私は私に触れていたい。
その一つの手段が、こうして書くということで、
そして、言葉にしていくということだ。
少しずつでいい。
できる範囲でいい。
完成しなくてもいい。
私は私のために、書く。
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