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五井先生の文
想念停止(空観)とは、空そのものが終局ではなかったのである。空になるとは、現象的、この世的すべての想念を一たん消滅し去って、その「空」となった瞬間、真実の世界、真実の我がこの現象面の世界、現象面の我と合体して、天地一体、神我一体の我が出現してくるのである。
真我の我とは一体何か。神我であり、慈愛であり、調和であり、自由自在な心である。それを完全に表現し得たのが釈迦牟尼仏であったのだ。
釈尊は完全なる理論をもち、完全なる慈愛をもち、そして完成された霊力、神秘力をもっていた。
理論がいかに完全であっても、理論だけでは大聖ではない。霊力、神秘力がいかに秀れていても、それだけでは大聖ではない。たとえこの二つをあわせもっていたとしても、それを仏ということはできない。完全なる慈愛を根抵にして、完成された理論と、完全なる霊力、神秘力をもっていなければ自由自在にこの世界の業を消滅させ、地上世界を救う中心者とはいい得ない。私は今更にして釈尊の偉大さをしのぶのである。
私がこのように唯一の尊者として畏敬する釈迦牟尼世尊がその明くる朝の瞑想時に、忽然としてわが前に現われ給うたのである。
瞑想してややしばらくした時、眼の前がにわかにただならぬ光明に輝いてきた。私は想念を動かさず、ひたすらその光明をみつめている。すると、前方はるか上方より、仏像そのままの釈尊が純白の蓮華台に結飾扶坐されて降りてこられ、私のほうに両手を出された。私も思わず、両手を差し出すと、如意宝珠かと思われる金色の珠を、私の掌に乗せて下さった。
私は何も想わず、押しいただき、霊体の懐におさめた。すると釈尊はまた一つのそれより少し小さいやはり金色に輝く珠を、私に下さる。私はこれをまた押しいただいて、同じように懐に入れた。その後、現象界でいう、おさかきのような葉を五枚下さって、そのまま、光輝燦然と消えてゆかれた。私はしばらく釈尊をお目見送りする気持で限想をつづけていると、今度は、やはり光り輝く中から金色の十字架を背負ったイエスキリストが現われたとみるまに、私の体中に真向うから突入してきて消えた。その時、“汝はキリストと同体なり。という声が、激しく耳に残った。私のその朝の瞑想は、その声を耳底に残したまま終ってしまった。私は深い感動というより、痛いほどの使命観を胸底深く感じていた。そのことが単なる幻想でないことを私の魂が、はっきり知っていた。
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