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四カ国目 インドネシア共和国

※2024年1月8日〜2024年1月13日滞在時の現地情報
※本紀行は私自身の主観に基づいており、正確性は保証できかねます


2024年1月8日(7日目)

4年ぶりのジャカルタ、しかしさっそくトラブルが…

私は以前、2020年1月にジャカルタを訪れたことがある。同じくフィリピン大学の交換留学生だった友人に会うためジャカルタに行った。

当時、ジャカルタの賑やかな雰囲気、混雑した交通、そびえ立つ高層ビル、発展の兆し、そして美味しい食事に感動したものだ。それから4年が経ち、再びこのインドネシアにやってきた。

マレーシアのクアラルンプールからの早朝便でジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港に到着し、5千円を支払ってアライバルビザを取得し入国。

ちなみに、スカルノ・ハッタという名前は1945年8月17日のインドネシア独立の際、指導的な役割を果たしたスカルノ大統領とハッタ副大統領の名前に由来している。アメリカのJFKやフランスのシャルル・ド・ゴール空港のような感じだ。

クアラルンプールからジャカルタへはトランスヌサを利用
ヌサというのはインドネシア語で島々という意味

実はここに来る前、この旅行の前に小さなトラブルが発生した。ジャカルタ経由でジャワ島中部のスマランへ向かう予定だったが、前日にジャカルタからの飛行機がキャンセルとなった。理由は不明だったが、すぐに代替便を予約したので事なきを得た、と思っていた。

ところが、空港に到着するとその代替便もキャンセルされていたのだ。急いで別の便に変更し、チェックインを完了してゲートで待っていた。ところが、搭乗10分前にアナウンス「the flight will be delayed. Sorry for the inconvenience」

OMG. 元々13時前に出発する予定だったのに、出発が16時に延びた。空港で5時間も待機することになってしまった。Sorryで済むことと済まないことがあるが、今回は済むことにしよう。ということで、ハリーポッターを見たり、この旅の紀行を書いたりして時間を潰した。

旅に夢中で忘れていたが、そういえば新年シーズンだった、あけおめ

スマラン到着、友人と4年ぶりの再会

2019年7月、私がスマランを訪れるのは、フィリピン留学中にできた友人の地元に足を運ぶためだった。彼は日本から5,600km以上も離れた場所でありながらも、ずっと私の友達でいてくれた。2024年1月で4年半の仲になる。

到着ゲートに辿り着くと、身長185cmの彼の姿が見えた。4年ぶりの感動の再会だ。とてもとても嬉しかった。

彼は日本語で「ようこそスマランへ」と言ってくれた。そう、彼は日本語を勉強しており、かなり流暢に話すことができる。私たちは会話の70%が日本語、25%が英語、そして残りの5%がインドネシア語だ。

彼の地元スマランに到着、2020年1月から4年ぶりに再会した

スマランでは4日間も滞在するので、私は少しインドネシア語を勉強してきた。馴染みが薄いと思うので、共有できる範囲をお伝えしたい。

まずインドネシア語はマレー語によく似ているようだ。お互いの言葉を80%は理解できるそう。

簡単な挨拶や基本的なフレーズは以下の通りです:

「こんにちは」は「Halo(ハロー)」
「ありがとう」は「Terima Kasih(タリマカシ/トゥリマカシ)」
「私は〜です」は「Saya 〜(サヤ〜)」
「〜から来ました」は「dari 〜(ダリ〜)」
なので、Halo! Saya 〇〇. Saya dari Jepang(ジャパンで大丈夫)Terima kasih! が言えれば、まずは十分だ。

スマランの街へ、そして新たな出会い

日本を発ってから6日、3カ国とジャカルタを経由し、ついに目的地であるスマランに到着した。

スマランはインドネシアの大きな島であるジャワ島の中部に位置しており、西ジャワには首都ジャカルタ、東ジャワにはスラバヤがある。ジャカルタとスマランの距離は約450kmで、東京〜京都・大阪ぐらい離れている。

彼のバイクに乗せてもらい、約30分ほど走ってローカルの宿に到着した。今回はここに3泊する予定。一息ついたら、もう午後6時頃でお腹が空いたので、とりあえずモールに行くことにした。

訪れたモールは「Paragon」といい、とても綺麗だ。ここで食べたのは、私の最も好きなインドネシア料理である「ルンダン(Rendang)」。

ルンダンは牛肉などをココナッツミルクと香辛料で煮込んだ料理で、世界で最も美味しい食べ物として評価されている。スパイスが強めなので、日本の食文化で育った人には好みが分かれるかもしれないがオススメだ。

インドネシア料理の代表格である「ルンダン」

彼の友人も来てくれるということで、ルンダンを食べながら待っていると、「Hi !!!」という感じで今日初めて会う現地の方が仕事終わりに会いに来てくれた。彼女は以前に日本にも訪れたことがあり、日本語も少し分かるようだった。

インドネシアでは日本の文化が本当に愛されている。ローカルなモールだが、牛角や丸亀などの日本レストランや三菱自動車のショールームがあり、RAMENYAという現地の日本食レストランもあった。

3人でジュースを飲みながら話したり、ゲームセンターで私の得意なゲームをやったりと、夜10時頃まで遊び尽くしてホテルに戻った。

今日はマレーシアからジャカルタを経由してスマランに、そして友人と再会して新たな出会いもあった。毎日がとてもとても濃い。

仕事終わりに駆けつけてくれた初対面の新たな友人

2024年1月9日(8日目)

スマラン観光地巡り、オランダ時代の文化遺産「ラワン・セウ」

翌日はなんと朝5時に起床し、彼のバイクに乗ってスマランで最も有名な観光地である「ラワン・セウ」に向かった。

ことわっておきたいことがある。私の記述には何らかの政治的な意図はなく、差別や誤解を招くような表現は避けたい。しかし、私は専門家ではないし、拙い文章の中で不快な思いをさせることがあれば申し訳ない。どうかご了承いただきたい。

インドネシアは17世紀頃からオランダ東インド会社による支配を受け、1945年の独立までオランダの植民地支配(42-45年まで日本の支配)を受けた。そのため、オランダ領時代に整備されたインフラや建築物が多く残っている。スマランは中部ジャワの重要な拠点であったため、観光地として多くのものが残っているのだ。

その中でも注目すべきは「ラワン・セウ」。1908年にオランダの蘭印鉄道の本社ビルとして設立され、独立後はインドネシア鉄道が所有し、国内文化遺産にも登録されている。

スマランに来たらここは欠かせない、ドラマなども撮影されているそう

日本で初めて鉄道が新橋〜横浜間を走ったのは1872年10月14日(鉄道の日)のことだが、それよりも6年も前の1867年にはインドネシアで汽笛一声が鳴っている。これは多くの日本人が知らないことだろう。私もその一人だった。

「ラワン・セウ」とは現地のジャワ語で「千の窓」という意味。その通り一つの部屋が小さく、大量のドアで区切られている特殊な構造だ。これはクーラーなどがない当時に風通しを良くし、少しでも涼しくするためだったといわれている。

朝早く出発したのは、太陽がガラスに美しい光を投影する瞬間を迎えるためであり、その光景が非常に魅力的で評判になっているそうだ。

ラワン・セウ内部の美しいステンドグラス、朝早くに来ると太陽光で魅力的に

日本とインドネシア

1945年8月17日にインドネシアが日本から独立宣言をしたが、その2ヶ月後である1945年10月15日から19日までの5日間に、ここスマランで重大な出来事が発生した。

太平洋戦争に敗れた日本軍と現地のインドネシア軍の間で武器の引き渡しを巡る武力衝突が勃発し、日本側から推定500〜900人以上、インドネシア側から推定1000〜2000人以上の犠牲者が出た。この中には多くの民間人と若者も含まれていたとされている。

この事件はラワン・セウの前で激しい戦闘が繰り広げられ、その慰霊碑としてYouth Monumentが建立されています。私もここで手を合わせた。

スマランの事件の犠牲者への慰霊碑「Youth Monument」

シンガポール編で触れたように、先に訪れたマレーシアや中国も同様で、かつて日本が東・東南アジア諸国に対して行った残虐な行為は今なお多くの人々の心に深い傷を残している。「そんな昔のことは現代人には関係ないだろう」とは思いたくない。

これらの国々では、日本のかつての行動についての教育が、日本国内よりも詳細になされているだおる。そして、それにより多くの人々が心を痛め、時には日本に対して良い印象を抱かないこともあると思う。

外国で現地の人と交流する場合、私たちは自分たちが日本人として代表していることを認識しなければならない。なぜならその人にとって、「私=日本人」であり「日本人=私」と捉えられるからだ。

したがって、外国を訪れる際は「その国の歴史的背景」と「日本との関わり」について、簡単でも調査するようにしている。私はその国の歴史に基づく失礼な態度をできるだけ避け、相手に配慮するよう心がけたい。

日本=「世界から愛されるアニメ・マンガの国」だけではない、かつて日本軍が東南アジアの人々を苦しめたのは紛れもない事実だ

ここだけ別世界、オランダ旧市街「コタ・ラマ・スマラン」

午後に訪れたのはオランダ領時代からの雰囲気が残るスマランの旧市街「Kota Lama Semarang」であった。スマランは当時から栄えた港町であり、日本で言うと神戸や横浜のようなイメージかもしれない。

オランダ風のテーマパークのような美しい街並みの中を、ひっきりなしにバイクが通り過ぎていく異様な景色は、スマラン以外ではなかなか見ることはできないだろう。

ここにはデジタル技術を用いた体験型のMUSEUM KOTA LAMA(旧市街博物館)があり、若い人を中心に結構な人が訪れていた。また、昔からある教会やビルなどもあり、ユネスコ世界遺産への登録も有力視されているそうだ。

ところで、私はここで友人たちと夜ご飯にナシゴレンとインドミーを楽しんだ。ナシ(Nasi)はご飯のことで、ゴレン(Goreng)は揚げるという意味なので、インドネシア風チャーハンとも称される。これがめちゃくちゃ美味しい。私は現地でナシゴレンの素を買ったので、希望者には私の特製ナシゴレンを振る舞いたい。

オランダっぽい街並みを通過するバイクの大群、なかなかカオスだ

2024年1月10日(9日目)

現地の学校へ潜入、学校教育を見学

スマランでの3日目、友人に対してインドネシアの学校教育に関心を抱いている旨を伝えたところ、今日は彼の母校を訪れる機会が得られた。しかも、アポを取り、ゲストとして歓迎していただけるとのことである。

彼の学校は小中一貫であり、生徒数も著しく増加傾向にあるようで、これは日本社会における深刻な少子化の状況とは対照的である。インドネシアもまた、日本と同じく6-3-3-4の教育制度を採用しており、義務教育は中学までとなっている。

先生方と交流し、最終的には校長先生までが出迎えてくださった。外国からの訪問者がまれであるため、生徒たちとも交流してほしいとの誘いに応じることとなった。

校長先生が出迎えてくださり、両国におけるグローバル教育の意見交換をした

私が訪れたのは中学1年生のクラスで、元気よく「Halo everyone!」と声をかけると、生徒たちは一斉に「Halo!」と返してくれた。「Nama saya “名前“ dari Jepang」と伝えると、「Oh Jepang!」という歓迎の言葉が返ってきた。

質問を促すと、生徒たちは恥ずかしそうにしている様子だった。英語を話すことが恥ずかしいのか、外国人と対話することが恥ずかしいのか。私がルンダンやナシゴレンが好きだと話すと、生徒たちも次第に打ち解け、「日本はどんなところ?」「インドネシアになぜ来たの?」「彼女はいるの?」などの質問が飛び出すようになった。

質問は主にインドネシア語で寄せられたが、中には私よりも流暢に英語を話す生徒もおり、それには驚かされた。現地の先生の中には、インドネシアでは英語を小学校から教えているが、なかなか実践の機会がなく、特にシャイな子供たちが多いため、英語の習得が難しいと嘆いている者もいた。

日本でも英語は小学校から教えられているが、実際に使えるようになるまでの道のりは険しい。私も一般的な公立の小中高に通ったが、大学に進むまで英語を話すことはできず、運良く大学生活で環境に恵まれて初めて英語が身についた。

この二国で共通する課題に直面しながら、解決の糸口が見当たらないかと、帰りのバイクで考えを巡らせていた。

中学生のクラスにお邪魔して記念撮影、みんな日本に興味津々だった

中国とインドネシア

午後に訪れた「サム・ポー・コン寺院」は、スマランで最も古い寺院であり、中国本土から来たイスラム教徒の鄭和という人物によって建てられたとされている。

東南アジアは未だに、近隣の大国である中国の影響を大きく受けている。私が東南アジアにおける一帯一路構想とその実態について個人的にここで意見を述べても火がつく可能性があるため、それについては伏せておくが、世界有数の華僑人口を抱えるインドネシアでも多くの影響が見受けられる。

例えば、ジャカルタからスラバヤまでジャワ島を横断する高速鉄道は、日本案が建設費用面などで中国に敵わず、結果としてインドネシア中国高速鉄道(KCIC)が設立された。昨年10月にはジャカルタからバンドンまでが開通している。

スマランにある中国の寺院「サム・ポー・コン」

以前に訪れた際にシェアした「カンボジアと中国について」には様々な意見をいただいたが、私はインドネシアにおける中国という経済大国の存在感を事実として非常に強く感じた。

近頃、インドネシアでは中国発のアイスクリーム店「MIXUE(ミーシュー)」が急速に人気を博しており、インフラだけでなく他の面でもその存在感を際立たせているようだ。

その日の夜の食事は、インドネシアで人気のある麺料理レストラン「GACHOAN(ガチョアン)」で、Mie Suitと呼ばれるクリーミーな麺を胡椒多めで炒めたものを100円で楽しんだ。その味わいは本当に素晴らしく、日本でも流行ってもおかしくないとすら思った。

大人気のレストランGACHOANのMe suit、クリーミーな麺としょっぱさがクセになる

2024年1月11日(10日目)

日本との関わりがまた、現地の高校を見学

昨日は彼の小中学校を訪れましたが、今日は彼の高校を訪れることになっている。彼の高校は最近リニューアルされたようで、構内は非常に整備され、私の母校と同様の雰囲気を感じた(私の母校も当時、開校10周年ほどだった)。

こちらの高校でも先生方や校長先生とお話をさせていただき、国際感覚を養うために選抜された生徒に対しては短期海外研修が行われていることを知った。

日本では山口県の高校と提携し、十数名程度の生徒が日本の学校で授業を受けたり、国内の校外学習や文化体験を通して外国のことを知るきっかけを得るプログラムが行われているそうだ。

今回の旅を通して再び感じたのは、やはり英語が使えるとどれだけ可能性が広がるかということ。インドネシア語を覚えるよりも、日本語を覚えるよりも、とりあえず英語を身につければ世界中の人とコミュニケーションが取れることを実感した。

英語は多くの国で母国語ではないが、多くの人が話せるようになっている。それはインドネシアでも同様で、英語が母国語ではないにもかかわらず、英語を使えば大半の人と簡単なコミュニケーションは取れる。日本も同じだろう。

校長先生と記念撮影、そういえばインドネシアの伝統的な服バティックを買った

旅の醍醐味、素敵な出会い、一期一会

高校のカフェテリアでお昼ご飯をいただき、別れの挨拶を交わした後、次に向かったのはMarina Beachと呼ばれるスマランの海沿いであった。

しかしここで、長時間のスコールに見舞われ、近くの本屋さんで時間を潰すこととなった。まあこういうこともある。「旅は寛容を教える」とある小説家だ。

本屋さんには「推しの子」や「呪術廻戦」など、日本でもホットな漫画がたくさん並んでいた。日本のオリジナルとは全く異なり、インドネシア向けにインドネシア語かつB4サイズぐらいの本であった。

1時間以上待って雨が弱くなったところで走り出し、ビーチ沿いの小さなカフェに入った。ここで食べたクリーミーなMie Gorengが絶品であった。

ビーチ沿いのカフェで食べたクリーミーなMie goreng、おかわりした

少し待っていると、彼の友人2人が来てくれて4人で夜遅くまでインドネシア語と英語と日本語混じりでたくさん話をした。そして私のインスタから歌を歌うことが好きなのがバレて、お店で日本の歌を歌ったりもした(笑)。

今回の旅の前半(中国・シンガポール・マレーシア)をずっと一人で過ごしていたので、基本的に色んな感動を一人で噛み締めていた。それはそれでいい、それは今回の旅の目的の一つである。

しかし後半になって、友人をはじめ学校の方々や現地の人々とたくさん言葉を交わし、それによって感じること・知ること・考えることも多かった。現地のことを深く知るために必要なことは「事前に本などで調べること」と「その情報を材料に現地の人とたくさん話すこと」だと思う。

今回スマランで会ってくれた3人の友人に、再び感謝を伝えたい。スマランのことをたくさん教えてくれて本当に本当にありがとう。

スマランに住む3人の友人、やはり現地の友達ができると旅も100倍楽しくなる

2024年1月12日(11日目)

あっという間にスマラン最終日、充実の4日間

ここまでの文章で触れなかったが、他にも中部ジャワ最大のモスクである「Central Java Grand Mosque」や様々な計測の起点となっている「Semarang 0km」なども訪れ、おかげさまで4日間のスマラン生活は充実していた。

本日夕方の便でジャカルタに戻るのだが、その前に彼の実家に連れて行ってもらった。なんというか、日本で言うと沖縄のような広がりのある住宅街が広がっていて(沖縄に行ったことはないが)、THE 南国なご自宅を訪れた。

彼のお母様は「ようこそ〜」と迎えてくださった。ナシゴレンやルンピアを用意してくださり、そのおもてなしの心遣いが本当に嬉しかった。

スマランを去る前、ここに来て初めて行った場所であるショッピングモール「Paragon」で再びルンダンを味わい、彼のバイクで空港に向かった。

美味しい手料理を用意してくださって、最後の最後まで思い出がたくさんできた

多くの日本人にとってインドネシアといえば「バリ島」だろう。プーケットやセブと同様に、大人気のリゾート地だ。その次に首都の「ジャカルタ」かもしれない。名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。

しかし正直に言うと、「スマラン」はなかなか行く機会がないと思う。だからこそ、訪れてみたかったのだ。実際に行ってみて感じたのは、現地の友人がいれば、インドネシアらしさをたくさん感じられる最高の場所だということ。これは忖度ではない。

オランダ時代の遺産、ジャカルタとスラバヤの中間に位置する中部ジャワだからこそ、多様な文化、親切で笑顔にあふれた人々、そして日本人には好まれるであろう美味しいご飯など、本当に魅力的な場所だった。

日本からの直行便はないが、ジャカルタから多くの国内便が運航されている。ぜひ私の投稿を通してでも、この魅力が伝わればと思う。また来たい。

4日間ずっと充実していたスマラン旅、友人とまた再会できる日を楽しみにしている

4年ぶりに現首都ジャカルタへ

なぜ“現”首都と表現したのかというと、2024年に遷都が行われ、インドネシアの首都がヌサンタラに移ることになっているからだ。なので、もしかしたら首都がジャカルタの時代にインドネシアを訪れるのは最後だったのかもしれない。

スマランから飛行機で1時間弱、ジャカルタのスカルノハッタ空港に戻ってきた。もうすでに夕方だが、せっかくなので少しだけでも観光をしようと考えた。空港は日本の成田のように都心から離れているが、高速鉄道は使いづらく、バスかタクシーで都心部まで行くしかない。私は安いバスを選んだ。

ジャカルタ観光で外せない場所の一つは「Monas(モナス)」という独立記念塔だろう。全長137mの大理石の塔で、4年前にも一度訪れたことがある。今回は来るのが遅く中に入ることはできなかったが、柵の外からしっかりと拝むことができた。

久しぶりに再会したMONAS、過去の出来事が一気に蘇った。

インドネシアでやり残したことはあと一つだけ、お土産の購入だ。家族や友人に配るお土産はインドネシアで買おうと思っていたので、インドネシアを代表するモール「Plaza Indonesia」にやってきた。

インドネシアのお土産といえば、ココナッツオイルやコーヒー、チョコレートなどが有名。今回はまだ旅が続くためにコーヒーとティーバッグ、そしてヘアオイルを購入して満足していた。

しかし、その帰りにハプニングが起きた。安く済ませたくてGrabの電動バイクタクシーで空港まで向かっていたときのこと。ジャカルタではSwapというチャージングスポットでバッテリーを交換するのだが、交換が間に合わず周りに倉庫しかないような大きな道路の途中でバイクのバッテリーが切れてしまった。

でもここは寛大な心で解決しようと思い、気まずそうな運転手のおじさんに「こういうこともあるよな!まあ次のお客さんの時には気をつけてあげて!」と慰めてあげた。その後新しいGrabを呼び、私自身は事なきを得たと思ったが、途中で降ろされた1台目のタクシーもしっかりと全額請求されてた(笑)。

ジャカルタの電動バイクタクシー、コンビニで着脱可能なバッテリーを交換する

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