中東を動かす帰属意識
隔月刊雑誌「みるとす」に寄稿いただいていた林幹雄さんの連載が6月号で終了した。その連載を単行本化したのが、今年1月に上梓した『中東を動かす帰属意識』である。
林さんとの出会い
林幹雄さんは長期にわたって中東各地に駐在してきた住商のビジネスマンである。退任された後もオフィス・バドゥという会社を自ら立ち上げ、日本オマーン協会などの理事を務め、防衛省では講師として活躍するなど、ずっと中東に関わり続けてこられた。
そんな林さんと出会ったのは今から6年前のことである。
弊社が千代田区から中央区に移転した後、「ヘブライ語対訳で聖書を読む会」を始めた。これは、弊社が刊行する「ヘブライ語聖書対訳シリーズ」を使い、ヘブライ語原文で創世記から学ぼうという小さな会である。弊社が出したメールマガジンを見て、会に申し込んでこられたのが林さんだった。
林さんは約5年間ほぼ皆勤賞で参加された。時には海外出張からの帰国直後、スーツケースを引いて成田からそのまま参加されたり、逆に会から成田に直行されたことも何度かあったように記憶している。ご自分の予定を組む際にも、月に2度ある「聖書を読む会」を最優先されるほど熱心に参加されていた。
連載スタート
大阪外国語大アラビア語科を卒業後、数十年にわたってアラブ世界にどっぷりと浸かって生きておられた林さんは、言うまでもなくアラビア語の達人だった。参加された当初、そのような背景は全く知らなかったのだが、それは「聖書を読む会」で遠慮がちに発される言葉の中から拝察することができた。それで個別にお話を伺い、思い切って隔月刊雑誌「みるとす」への寄稿を依頼してみた。
ライフワークとして調査・研究してきた中東に現存する部族の帰属意識という観点から書いていきたいとのことで承諾いただき、2017年4月号から連載が始まった。この号は、「みるとす」通算151号ということで雑誌のデザインをリニューアルした記念すべき号だった。そして装いも新たに始まった連載が「アラビア半島の社会とイスラム」である。その後、この連載は19回続き、さらに「中東の宗教マイノリティ」というタイトルで7回、計26回に及んだ。
原稿は常に最速で送ってこられた。というより、常に数号分先まで前倒しで送ってこられていたので、林さんには原稿依頼のメールを出した記憶がない。これは最後まで変わることがなかった。
単行本化に向けて
2019年の夏、この連載を単行本化したいとのご相談を受けた。あと7~8回で書きたいことはすべて書き終える予定なので、2020年末頃には発刊したい、と。連載が終わるのは寂しい思いだったが、約1年半後に発刊を目指すということで合意した。それまでに、林さんのほうで今までの原稿を見直す作業をし、用語解説を作って参考文献をリストアップしていくことになった。
当方では、2020年秋頃から出版に向けてのレイアウト・校正作業が始まった。しかし私の手際の悪さから、年内の発刊が難しくなってきた。その旨を林さんに伝えると、とても残念そうに「そうですか、年内は難しいですか……」と言われた声が、今も私の耳朶に残っている。
この時期、すでに林さんの身体は癌に蝕まれていた。今となっては、年を越せるかどうかを自ら危惧されていたのではないかと察するが、その時の私には知る由もなかった。自らのことを決して口外されなかったのである。
年が明けた2021年1月5日の夜、ようやく単行本の編集が最終段階に入った頃、林さんは帰らぬ人となられた。享年64歳だった。
林さんはすべての原稿を準備し、書名とカバーの写真も決めておられた。カバー写真(上掲)は、サウジアラビアのアスィール州、ラビア村でご自身が撮った一枚を指定された。林さんが中東の部族について研究を深めるきっかけとなった、思い出深い写真である。
『中東を動かす帰属意識』は、林さんの大学の先輩に当たる塩尻和子先生(筑波大学名誉教授)の大きな助けを得て、1月末に上梓することができた。さらに、6月号で終了した林さんの連載を引き継ぎ、塩尻先生が弊誌に寄稿してくださることになった。これはひとえに林さんが繋いでくださった素晴らしいご縁である。
弊社事務所の「聖書を読む会」を行なっているスペースには、1m以上もあるエジプトのパピルス絵画と、七枝の燭台がデザインされたユダヤ教神秘主義カバラーの手描きのポスターが掲げられている。いずれも林さんから去年いただいたものである。アラブ世界とユダヤ世界が併存するという、何とも不思議な空間となっている。アラビア語と聖書ヘブライ語を駆使する希有な存在であった林さんを象徴するかのように。
林幹雄さん、本当にありがとうございました。(谷内意咲)
《2021年2月28日、産経新聞書評》
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