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カンカン照り

カンカン照りの日差しの強さに負けて、風通しのいいレストランに入った時のことである。言葉が満足に伝わらない異国の地で、まだ満足に話せないわたしは、壁に貼られている無数のメニューを指差して「あれをいただけますか」と申した。腹が無性に減ったわたしは、料理が出てくるのを待つ間、表の強い日差しがレストランの中を相対的に暗くしている様子を目の奥に感じながら、路地で戯れている子供たちを見ていた。日本のものとは違う日差しをみせる太陽に照らされたこどもたちが、何かしら興奮気味に喋っている。どこの国でも子供は宝のようだなと思っているうちに、テーブルに豚肉とマッシュルームの炒め物が置かれた。

店員さんに「thanks」と伝えテーブルに目線を向けると、ふとポットに入った薄紅色の茶が置いてある。この間ルームメイトに連れられて行ったローカルレストランにも同じポットがあった。前と同じ香りが注ぎ口からふんわり顔を出す。ここではこの可愛らしいポットもこの茶も定番のものなのだろうか。ストローと氷の入ったコップに熱々の茶を注ぐと、ジュワッと氷が溶けてゆく。茶くらいストローなんていらないじゃないかと思いつつ、あたりを見渡すと、「ああそうだったのか」と納得する。食器に口をつけるのがマナー違反のこの地域において、コップはその他の平皿と同じカテゴライズをされているのかと。私は背を曲げて顔をストローまで近づけ、大人しくストローを吸った。






食事を食べ進めていると、杖をついた老人が各テーブルを回っている様子が目に入った。ボロボロの帽子を客達に差し出している。
ドキッとした。老人の目は客らの目に向いており、客らの目は老人の足元に向いている。目の前の食事を五感で感じている感受性豊かな状態の中、食事以上に避けようがない老人の存在を、自らが食事という環境で受容した感受性から意図的に全く排除している様を客達に見た。食事はこれほどまで豊かな感性で味わっているのに、老人に対しては向ける感性すら与えないのである。そうすると、老人は諦めて次のテーブルにまわる。この異様な雰囲気は、まるで忌ものがいる田舎の村のようであった。村人は生活に忌みものがいることを許容しつつ、それには触れずに生活を暮らしていく。忌ものの話題は意図的に避けられており、誰もそれを避けていることすら口にしない。口にすればたちまち忌ものが現実のものとして、我々の感性のうちに現れてしまうからである。この空間は、ボロ帽子を持った老人を、我々の食べる3ドルにも満たない食事よりも粗末なものにした。老人がテーブルを回っている間、私はご飯の味が全くわからなかった。食事に感化され引き出された感受性を、老人に与えてしまったからである。この空間の中で、わたしだけが彼を3ドル以上の、何かもっと重大なもののようにしてしまったのである。老人の目は私の目に向いており、私の目もまた老人に向いていた。私の中の忌みものを現実にしてしまったのである。気がつくと、老人はどこかに消えていた。ハッと私が周りを見渡すと、レストランは通常の空気に戻っている。いや、老人がいた時もこうだった。客らも、従業員も、レストランの建物も、老人を現実のものとしていなかった。私だけが老人の目を見たのである。

外は変わらずカンカン照りの日差しであった。



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