住職への手紙
突然のお手紙、不躾であることをお許しください。
まず最初にお伝えしておきたい事があります。この手紙は大変不躾な手紙になること、お許しください。わたくしは形式的な手紙の書き方がわかりません。頭語がわからないとか、時候の挨拶がわからないとか、手紙のマナーがわからないとか、そういうわけではございません。いや、正しく謂うとするならば、それそのものがわからないといってよいと思います。
というのも、わたくしは形式的な現代の在り方を好んでおりません。手紙の形式にせよ、祭礼にせよ、それらは習俗としての慣行と思います。習俗は人間の模倣性の性質のもと生まれた社会生活の準則であります。
これはわたくしたちが人間としてうまれおちた以上は避けられぬことですが、現代はその模倣性の受容が先立っているかのように思われます。例えば、意味も分からないが、ネットに「マナーというのはこういうものだ」と書かれていたからそれを模倣する。祭礼の儀式の過程に意味があるのかはわからないが、ずっとそうやってきたからそれに従う。というようなことです。
今はネットで調べさえすれば、手紙の形式を知れます。ですが、それは手紙の形式を知ることができるとのことであって、手紙を書く時なぜその形式に従うのかとか、形式とされるものはなぜそれを以て形式となっているのかとかは解ることはできません。であるから、わたくしは形式的な手紙の書き方がわかりません。そのような形式の在り方は、ネットの記事や、文字上の解釈でわかるものとは感じていないのです。
わたくしは手紙を頻繁に書くような環境におりませんし、手紙での心遣いを教わる機会もございません。誰から学ぶかもわからない状態であります。だとすれば、わたくしができる事とすれば、形式がわからないのであれば、わからないままに従うのではなく、己のいわんとするところやその心に従って、わたくしの思う範囲で最大限の敬意をもって不形式ながらもお手紙を書くことしかできないと思ったのです。
形式に関して申し上げますと、先代の継承として慣行のするところの意味を深く学び、心からその形式を行うとき、継承された慣行が、心から行うところの補佐となる、というのが形式の本来あるべき形だと惟うのです。
慣行はその形式を以てして、慣行の本質となってはならないと考えております。それも、慣行の本質を担うものは、先代の精神を受け継いだ今を生きる人間そのものであり、自分の生を通して、先代が慣行を遺した意味を本質的に考えることにこそ存在する、という考であります。
此処にこそ、慣行を為すことの「目的」、即ちは慣行するところの「他者への敬意」が、真に発生すると惟います。形式は教条ではなく、行動の指針です。
わたくしはまだ手紙の形式から、手紙を書く時に必要な思いやりの精神を得ることができていません。だから、わたくしが形式的な手紙を書くことは、その形式に見合った精神を持たずして、さもその形式を以て相手を敬っているかのように観せるだけの傲りだと思ったのです。であるからして、このような不形式を以て●●さまへの敬意とさせていただきたいのです。
●●県●●市●●町にある、●●寺の住職さんに、『●●』令和四年 ●● 第115号をいただきました。そのとき「▲▲▲」の記事の冒頭を読んで、なにかパッとするところがあり、「この方に手紙を送ろう」と筆を執りました。
「僧堂の修行生活で多くの祖師方の言葉に接して来た。しかし、それは片言隻句にすぎない。生活の一場面を活写したものもあるが、どんな所に住み、どんな生活だったかを考えて来なかったと思った。」という一文はわたくしにも思うところがありました。
わたくしの近い人は、熱心なマルクス主義者で、ストイックにマルクスに向き合っていました。マルクス主義は、マルクスのその著書の難解さ故に、学問としての地位を担保されることもある思想です。
だけれどもそれは結局、その地位を持った学問をすることによって、自分に地位を付与するだとか、自分への飾りものを求めてしまうことにしかならないのではないかというおもいが、近い人とわたくしにはありました。近い人は己のその虚栄心を払拭しようと、マルクスの歴史や生に向き合おうとしておりました。
わたくしたちは故人に触れることができません。唯一故人の生、すなわちその歴史に触れられるとしたら、本でありましょう。もちろん本に書かれずに死んでいった者たちには触れることができませんが、偉大な思想家と呼ばれるひとに触れられるとしたら、彼らの遺した文字であると思います。
だけれども、その本は和訳され、その和訳者によって和訳者の生が入り込み、時代も文化も違うわたくしは原著を書いたひとに触れることができなくなります。誰の手も加えられていない原著でさえも、当人の片言隻句に過ぎません。文字上の矛盾や理論の整合性をたどっても、それは自分との向き合いであって、当人との対話ではありません。
ならばどうやって対話をするのか、と問うたときに、わたくしは自分との向き合いが当人との対話であると考えています。偉人らは子供をつくり、その子供もまた子供をつくっています。子供をもうけなかった偉人も、何らかのかたちで周りを影響し、影響された周りもまた周りを影響していきます。これは偉人に限らず、凡ての人間、物、生物でさえそうといえます。
このような生の営みが今の自分を在らせているのであるから、今の自分、己を取り巻く環境、その他人がそこに在るということが、故人となった当人との対話であるとの考であります。もちろん、当人の言から、当人の生、その歴史を感ずることも、己をすなわちは己という人間の生の歴史を深く知るためのひとつであると思います。
そういう意味で、「▲▲▲」の冒頭に感ずるものがありました。もしかしたら、●●さまは異なる意味で書かれたのかもしれません。上記の感覚はあくまでわたくしの感覚ですから、わたくしの感覚からみたところの文が、偶々わたくしの惟うところに一致しただけかもしれません。だけれども、わたくしの奥深くといいますか、常々昔から燻らせておりました感覚に直感いたしましたので、このようなお手紙を差し上げているところです。
わたくしは仏教の道を知りません。ひとは、特にその道を志したひとは、自分の知っていることがらについてはすぐれた判断をすることができ、またそのよき判断者であると惟います。教育のあるひとはその教育を受けたそれぞれのことがらについて、のよき判断者であると存じております。
ですので、●●さまのその精神とそこからみえる世界を、もろもろにあるよき判断のひとつとして傾聴したく思います。「もろもろにあるよき判断のひとつとして」という心持ちが大変失礼であることは承知しております。こう書いたには訳がございます。
わたくしはわたくしである限り、他者が他者であって生、すなわちはその歴史を持つとき、わたくしは他者の観てきた世界やその経験を経験することができません。同じ場を過ごし、同じ飯を食い、同じ言を書くことはできても、わたくしがここに在る限りは他者に没入して這入ることはできません。
わたくしは他者を解ることはできません。その人を解るというのは、そのひとに没入することにあって、知覚、直覚を重ね同一となることだと思うのです。今のわたくしにはできません。そもそも誰もできるものではない領域なのかもしれませんし、もしかしたらできるのかもしれません。わかりません。ですが、今わたくしがわかるのは、わたくしがわたくしの生を以て他者と接している事で、他者はわたくしの世界を構成する一部であるということです。
他者の人生というものに対しては、その厳しさもしくは易しさ、そういうものは相対的にみればあるかもしれませんが、わたくしは他者の生を、ただそこにあるものとして受け取っております。ただそこにあるというのは凡てにおいて平等です。
だけれども、わたくしは人間としての性質を棄てることは出来ず、ただそこにあるものを選出したり目的化したりして、平等を行わずに公平を行わんとしてしまいます。それは人間に生れ落ちたことを受容することだと考しており、その上で人間として生れ落ちたことによる生そのものの穢れに、自ら鞭打つ行為が公平を行わんとすることだと惟います。
凡てをただそこに在るものとして捉えるとき、わたくしも同じく在るものとして、時間の流れで在れます。だけれども慾や邪念が出てきたとき、わたくしは公平を行わんとしなければ、堕落したヒトとして世俗に苦しみを感ずるまでになってしまいます。「もろもろにあるよき判断のひとつとして」というのは、そういう意味で、ただ在るとして捉えたいが故であります。
もしこれが失礼に当たるのでしたら、お叱りください。わたくしはまだ未熟で考の迷走真っ最中でありますので、何が道理であるのかがわかりません。ですので、お叱りやその道のよき判断者の説教を受取って、自分の血肉にしたいと考えております。
わたくしのいわんとしているところが伝わればよろしいのですが、拙い語彙ですので伝わりきれぬかもしれません。
その前に、文字とは伝達の手段である故、真に相手の感覚と一致させることはできず、相手の文字がいわんとしているところを己の感覚と擦り合わせることで相手の感覚を想像するしかできないですから、そういう意味では文字では何人たりにも伝わらないのかもしれません。
伝わりきらなくとも、わたくしに対する配慮はいりません。●●さまの観てきた世界を、●●さまの言で聴講いたしたく思います。わたくしと意見や観えている世界が正反対であろうと、わたくしにその配慮はいりません。時たま親切心で配慮してくださる方もいるのですが、今ここではその親切心は、かえってわたくしの求めているものから遠ざかってしまうように思われます。ですから、遠慮なく言っていただいて構いません。
大変本題から話が逸れてしまいましたが、わたくしは自分のもっていない新しい世界を通じて己なりの結論を出してみたく思います。その嚮導として、仏教の考え方といいますか、感じ方といいますか、その世界を知りたいのであります。何も無知なわたくしがいうのもまだ不鮮明ではありますが、恐らく、お手紙のみで仏教の世界や●●さまの観る世界は把握しきれないことかと思います。
最終的には自分自らが感じなければ、頭でっかちで思惟の中に閉じこもることになってしまうというのも重々承知でございます。だけれども、お手紙を通して、直接感じることの導きの始まりは得られるのではないかと思います。
2022年09月27日
ここから先は
¥ 120
学費になります